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【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2  投稿者: 青色つきこ 投稿日:2019/07/25(Thu) 23:57 No.11968

みなさま、こんばんわ。

小島修介氏の足跡について、再開したいと思います。
この後、マクロ光学工業(株)、そして日本テレスコープ工業(株)と続くのですが、
これまでの期間に関しての追加情報も併せて掲載していきます。

旭光学工業(株)に勤務していた時期に「子供の科学」に掲載した記事がありましたので、
掲載しておきます。(「子供の科学」1953年12月号)
小島修介氏は「子供の科学」の1951年9月号から「天文欄」を担当しています。
野尻抱影門下の草下英明氏、中野繁氏、それに村山定男氏も記事を寄せています。
小島氏は、アストロ光学(株)を立ち上げる関係からか1954年で担当は降りたように思えます。

旭光学工業(株)では勝浦水路観測所に収められた16cm屈赤の開発に携わっていたと考えられます。
小島氏が天体部の初代部長かも知れません。
写真に写っている方は、鈴木幸三郎氏でしょうか、小島氏が旭光学工業を辞められた後、天体部
を引っ張っていかれた方と思います。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   エド - 2019/07/26(Fri) 01:24 No.11969

青色つきこ様 ガラクマ様 皆様

途中で止まっていました“足跡”の再開、ありがとうございます。

小島修介氏が旭光学時代に在社していた“証拠”がほとんど無く、なかば推測だったのですが、
これでガラクマさん作成の年表のウラがとれたことになります。

勝浦水路観測所に収められた16cm屈赤というのは、前スレ“足跡”最後の、旭光学の広告にある大型屈赤の写真と同じでしょうね。
入社1年程度で、大型屈折赤道儀をゼロから作ってしまうとは、やはりスゴイですね!
もしこの16cm屈赤が現存するなら見てみたいものです。。。

歴史に“if”は許されないのでしょうけど、
修介氏がこのまま旭光学で活躍されていたら、
その後の天体望遠鏡業界も違った様子になっていたかもしれませんね。
修介氏自身にとっても、どちらが良かったのか、、、これは考えても仕方ないですが。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   エド - 2019/07/27(Sat) 21:22 No.11970

青色つきこ様が提示された「子供の科学」1953年12月号の記事内容の打合わせは、
同年7月2日に新宿で草下英明氏(編集)、小島修介氏、岩崎賀都彰氏の3名で行われたと「星日記」にあります。
その時、既に小島氏は望遠鏡製造会社を興して奮闘中というふうに表現されており、
旭光学工業の天文部長の肩書きとは矛盾するのですが、ひょっとするとこの時点で既に“二束のわらじ”状態だったと想像いたします。

さて、前スレにて小島氏がアストロ光学を去った後、“マクロ光学”という大田区の天体望遠鏡メーカーの取締役に就任します。
マクロ光学の登記簿は既に前スレで公開いたしました。
写真はその名刺の表と裏面です。

この名刺、なかなか興味深いところがあります。
まず、本社と事業所の2箇所の住所がありますが、これらは3キロほど離れていますが、調布嶺町は多摩川近くの工場と思われます。
営業品目に望遠鏡と並んで“通信機”とあります。。。
またプラスチック工場という記載があり、このあたりが時代の変化を感じるところです。
このマクロ光学が輸出でそこそこの量を裁いていたであろうことは、∞マークの望遠鏡がアメリカで多数発見されたことから想像されます。

裏面もなかなか興味深い内容です。
宇宙旅行協会、、、ひょっとして“ベガ”や新宿宇宙村の“あの方”とお知り合いだった??





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/07/28(Sun) 11:51 No.11971

みなさま、こんにちわ。

もう少し、旭光学について追記しておきます。

小島氏の旭光学工業(株)の在籍期間ですが、確認できているのは、

 @ 旭光学工業(株) 天体部長 「月刊教材教具」1953年2月

 A 旭光学工業(株) 天体部長 「子供の科学」1953年12月号(No.11968で紹介)

 B 旭光学工業(株) 大山工場 天体部 「子供の科学」1954年9月号
 

からは、1953年1月〜1954年9月or10月と考えます。

エド様の草下英明「星日記」の指摘箇所では、岩崎氏が出てきますが、岩崎氏自身
のtwitterによれば、高校を卒業し1953年 旭光学工業(株)に入社しています。
(※1958年になっていました、誤記です。1953年に訂正します)

「子供の科学」1954年9月号に小島氏への連絡先として次のように記されていました。

 板橋区板橋4丁目1108 旭光学工業(株) 大山工場 天体部

私は、てっきり、志村前野の本社・工場の方だとばかり思っていました。
本社から離れているし、自由な環境だったのかも。
また、岩崎氏は自作望遠鏡を旭光学天体部の1室でちまちまと作っていたと自身書き込
んでいます。

https://www.instagram.com/p/BDVtmshoEy2JQmM-kLUbDvQ2dxZwjffne5zY2U0/
https://www.instagram.com/p/BEwczAlIE0xadCDOIT8jEaprhJCArqNGlLX9us0/

草下氏が記している小島氏の望遠鏡製造会社は、大山工場 天体部 だと思います。


板橋区板橋4丁目1108 は、アストロ光学(株)の発祥の地 豊島区千早町2丁目30
とは近い距離です。(1108番地は大山駅前寄り?)

六吋屈赤の新しい写真(写っている方は、たぶん鈴木幸三郎氏かな)も併せて添付します。


マクロ光学工業の名刺にある日本宇宙旅行協会ですが
メンバーについても「月刊教材教具」にありますので再掲しておきます。
日本天文研究会での小島氏の活動については、会報をみてもわかりません。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   エド - 2019/07/29(Mon) 22:19 No.11972

旭光学工業の大山工場の住所から調べると、大山駅南口駅前(東寄)です。
本当にこんなところに工場があったのだろうか、と思ってしまいます。

そう思って都立図書館(有栖川公園内)へ出向いて、1962年の住宅地図をマイクロフィルムで見ると、
なにやら光学関係の財団法人名になっています。(名称はうっかりメモするのを忘れました)

東部東上線の大山は、板橋光学エリアの東の玄関ともいうべきところで、
その昔は旧川越街道にできた商店街が駅を貫くようにあり、とっても栄えたところらしいです。
(青色つきこ様が示した右地図で、大山駅をノの字型に貫いて川越街道にいたる道)
うちのカミサンに言わせると、「大山と言えばハッピーロードよ」と。。。
そのくらい有名らしんです。
そんな大商店街のそばに望遠鏡工場が?不思議です。。。そのへんが板橋らしいのかもしれませんが。

写真1は、当時、まだ大山銀座と言っていた頃の商店街。
写真2は当時の大山駅南口です。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/07/30(Tue) 22:38 No.11973

みなさま、こんばんわ。

旭光学工業(株)の六吋屈赤は勝浦水路観測所の1台だけかと思っていましたが、白浜水路観測所
にも入っています。1958年4月の部分日食の観測で其々の観測所に同じものがありました。
少なくとも2台は製作されています。 (「水路要報」1960年5月号)

旭光学工業(株)は、1951年に志村前野に移転する前は、板橋4丁目1108にありました。
板橋4丁目1108の社屋は、大山工場として天体部が入っていました。その他にも、何等かの部門も
残っていたと思います。

エド様、大山の写真アップ、ありがとうございます。

戦時中の小島氏の足跡を追ってみると、

戦友が北海道の渡島出身ということから、小島氏も北海道出身であり、当時の召集は本籍地に基
づいていたようなので、第七師団(旭川)に召集されたと思われます。
第七師団からは、その一部が満州に派遣され、ノモハン事変にも関わっていたようです。
小島氏がノモハン事変に遭遇したかは、はっきりしませんが、支那事変での論功を受けています。
(前スレの小島修介氏の足跡を参照)
一時、満州から帰国し、相模野の陸軍兵器学校に入学しています。(1940年頃?)
その後、満州に戻ったようです。このへんは、野尻抱影氏の「軍靴」(「星三百六十五日」所収)
に書かれています。
満州の関東軍からは、その兵力の一部が南方に派遣されています。
五藤斉三氏は、サイパン島から帰還したと「天文夜話」に記していますが、ご遺族の方からは
トラック諸島と聞いております。トラック諸島には、関東軍からその一部が派遣されたようです。
(帰還した方の手記に、関東軍の派遣先が記載されています。)
トラック諸島には、連合艦隊が基地を置いていましたが、アメリカ軍の空爆で無力化され、地上
戦はありませんでしたが、補給が絶たれ孤島と化したとのことです。

終戦後、小島氏は帰国し、五藤光学で、また、働くことになります。五藤斉三氏を助け、単軸赤
道儀、南天赤道儀など製品の開発に尽力します。それは、実用新案を見れば一目瞭然です。

戦時中の五藤光学、小島氏が召集されていた時期の五藤光学についても、いずれ、触れておきた
いと思います。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/08/04(Sun) 09:50 No.11974

みなさま、こんにちわ。

小島氏が、戦後復員し、再び五藤光学研究所で働き、五藤斉三氏を
助けて、数々の働きをしますが、なぜか、五藤光学を辞めてしまい
ます。
いつ辞めたのかについてですが。
以下の@〜Bより1951年2月頃と考えるのが妥当でしょう。


@「月刊教材教具」1951年2月号では、
  肩書は五藤光学研究所員

A「月刊教材教具」1951年3月号では、
   ”目下独立して自由な立場にある私の主張〜”と
  前置きしております。

 ※ただ、ここでの肩書が”後藤光学研究所員 後藤修介”になってい
 ます。ゴトウ → 小島もゴトウと発音できるし。
 そうなると、小島光学研究所をつくった、名乗った。
 けど、やっぱり天象普及協会でいくことにした?

B「天文と気象」1951年4月号には天象普及協会としてアストロサービス
  センターの公告が見られのが、先にガラクマ様より報告されていま
  す。(記事No.10647)


アストロサービスセンターとしての小島氏の活動の一端は、

アストロ・ニュース・パブリシティ(四)
  九月下旬、水沢の緯度観測所の六吋屈折赤道儀の修理を実費で修理して参りました。
  現在、都立高校の六吋屈折赤道儀、海上保安庁の十吋カセニュートン式反射鏡、倉敷天文台
  の十二吋ニュートン式反射鏡、日吉天文同好会及び九州大学の十八吋反射望遠鏡の修理、
  設計、製作等々を依頼されてをります。(「月刊教材教具」1951年11月号)

からわかります。

調べてみると、
 @ 水沢の緯度観測所の六吋屈折赤道儀
   先に、水沢の奥州遊々館に行ってみましたが、この六吋屈折赤道儀が何なのかは、わかりません
   でした。天頂儀のこと?それとも別に何かあったのか。(記事No.11706も参照)
 A 都立高校の六吋屈折赤道儀
   まったく、不明。
 B 海上保安庁の十吋カセニュートン式反射鏡
   こちらも、不明。
 C 倉敷天文台の十二吋ニュートン式反射鏡
   こちらは、現存しているので、
   http://www.city.kurashiki.okayama.jp/5505.htm
   をどうぞ。
 D 日吉天文同好会
   岡山県立図書館の蔵書検索から機関紙があるのが確認できます。
 E 九州大学の十八吋反射望遠鏡
   こちらも、現存しているので、
   http://asakura.fku.ed.jp/one_html3/pub/default.aspx?c_id=187
   をどうぞ。

また、旭光学とのつながりも、このような活動を介して生まれたのかもしれません。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/08/11(Sun) 09:24 No.11978

みなさん、こんにちわ。

小島氏は、「子供の科学」1954年2月・3月号に「天体写真のうつし方」と
いう記事を載せています。

記事には、いろいろ興味深いものがあります。
旭光学に在籍していなかったら、書けなかった部分もあると思います。
ここでの、キーパーソンは、鈴木幸三郎氏ですが。今も、御健在なのでしょうか。


@ 太陽撮影でのダイアゴナル・プリズムの活用

アストロ光学の太陽投影板(サンスクリーン)は、ダイアゴナル・プリズムと併用しています。
こういうやり方は、既に前例があったのでしょうか。
これも、小島氏が製品化したものだったのかもしれません。

A 簡易赤道儀

経緯台を簡易赤道儀として活用する方法を考えたのは、誰でしたっけ。
外国の何とか伯爵だったような?記憶があいまいですが。
もしかして、小島氏?


旭光学工業(株)在籍中の小島氏の動向も大分わかってきました。


アストロ光学(株)の会社登記については、エド様がまとめてくれています。
(記事No.11299)
1957年11月に代表取締役に就いた千葉勝雄氏の動向を追加しておきます。
(★印が今回追加)

*昭和30年3月23日
  新株発行により2千株→4千株に増資
*昭和31年2月5日
  監査役が内藤氏から浅原栄二郎氏に代わります。
  どうもこの浅原氏がアストロ光学の後半のキーマンのです。後に代表となり精算を担当します。
*昭和32年5月7日
  本店を豊島区千早町からお隣の要町へ移転登記します。(ごく近所です)
  要町のこの場所はバタヤ部落の跡地です。
  実際の移転は1月頃に行われたようです。
*昭和32年4月14日
  取締役数人が辞任しています。
*昭和32年11月5日
  代表取締役が浅原栄二郎氏と小島氏の連名に変わっています。
  取締役数人が辞任しています。
*昭和32年11月12日
  代表が千葉勝雄氏に代わっています。
  小沢三男氏、木堀秀夫氏が取締役に就任しています。
*この前後で取締役が何回も入れ替わっています。

★昭和33年4月28日 (S33.4.28官報)

  株式名義書換の停止について官報公告

   東京都豊島区西巣鴨二丁目二一六一
   アストロ光学株式会社 代表取締役 千葉勝雄

★昭和34年4月30日 (S34.5.16官報)

  (有)千葉製作所 → (株)千葉製作所
  組織変更の官報公告 

   東京都板橋区志村清水町六二六
   代表取締役 千葉勝雄   
   
*昭和34年11月25日
  株主総会の決議により解散
*昭和37年11月10日
  3回目の「精算桔了の年月日を抹消する」との記録。
*昭和37年11月26日
  “会社を継続した”との記述があります。
  営業目的に「雑貨品の輸出入貿易業」を追加して、「アストロ工業」が継続する記述があります。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   ガラクマ - 2019/08/11(Sun) 15:00 No.11979

garakuma.gif 青色つきこ様、どんどん情報が出てきますね。

私の方は、日本宇宙旅行協会への興味を覚え、積読になっていた原田三夫氏の自伝「思い出の七十年」を斜め読みしました。
しかし、小島氏のことは書かれておりませんでした。
ただ、協会の冊子に協会の理事の記載があり、それには名前がありました。当時は、25名以上の委員がないと国際機関に登録出来なかったとのことで原田氏の協力者であった保積善太郎氏や野尻包影氏、科学画報の関係から、理事になったのでしょう。
代わりに森長次郎と言う方が、戦前から天体望遠鏡の製造をしていたという情報はありました。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   エド - 2019/08/11(Sun) 23:45 No.11980

1954年というと、旭光学にとって、世界初のクイックリターンミラーをもった35ミリ判一眼レフ”アサヒフレックス”
を発売した記念すべき年になりますね。
それに合わせるかのように、天体写真の撮り方を投稿しているのは流石です。
しかし、まだペンタプリズムではなく、ウエストレベルですからピント合わせは大変だったでしょうね。
修介氏、時代を先取りしすぎです。。。

その日本宇宙旅行協会のメンバーも、なかなかすごいです。五藤斉三氏もいらっしゃいますね。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/08/17(Sat) 14:56 No.11982

みなさま、こんにちわ。

原田氏と保積氏は、野尻氏と小島氏との関係と近いのでしょうか。
小森幸正氏も常任理事に名を連ねていますが、この頃は、五藤光学研究所に
まだ在籍していた頃ですかねぇ。

アストロ光学(株)の新社屋があった要町三丁目30番地ですが、ここは不法占拠
とか、いろいろ問題があったところのようです。
アストロ光学(株)は、いろいろな問題をかかえていたようですねぇ。
小島氏も、頭が痛かったでしょう。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/08/24(Sat) 13:23 No.11994

みなさま、こんにちわ。

アストロ光学(株)の製品は、アストロ光学工業(株)に受け継がれますが、その中のひとつに
ズームアイピースがありました。
自由変倍接眼鏡 VTE 8〜20mm です。
天体用ズームアイピースの魁でしょうか。


実物が、CNに出てましたので、Charlie B様の写真をお借りします。

https://www.cloudynights.com/topic/673365-royal-astro-optical-co-50mm-f10/

これは、小島修輔氏もしくは谷田貝幸雄氏の考案でしょうか。
アストロ光学(株)が活動を終えた後も、谷光学研究所で引き継き製造されていました。

小島氏は、自由変倍接眼鏡 VTE 8〜20mm は、高中低倍率の接眼鏡が揃えられないときには、
これ1本あれば、また正立像なので地上用にも使える旨を述べています。
(反射望遠鏡製作ガイド 第三回」 科学画報1956年9月号)

変倍望遠鏡、双眼鏡は1950年当時も考案されていますが、これは珍しいのではないでしょうか。
でも、視野は狭そう!
Charlie B様、使用しての感想を聞かせてください。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   エド - 2019/08/24(Sat) 21:24 No.11995

青色つきこ様 皆様

しかし、よく情報を発掘しますね。

要町のその界隈には大きな「バタヤ部落」があったことは前スレで報告したとおりですが、
バタヤ部落自体が在日の方による、なかば不法占拠でした。
添付写真の”屑屋”と書いてある大きな土地があります。

アストロ光学が訴えられている要町3−30の土地も、借地であり、さらに”借地の又貸し”だったようです。

前スレの登記簿によると、この要町3−30には、1956年2月〜1957年5月、
わずか1年ちょっとしかいなかったと読めるのですが、
このゴタゴタに巻き込まれる気配を感じたのかもしれません。

添付は、既に修介氏がアストロ光学を去った1962年の要町界隈の住宅地図ですが、
そこには、3−30と3−28の2箇所に「アストロ光学」と書かれています。(矢印)

ということは、新社屋が建った後も3−30のバラックを使用していたことになります。
これは謎です。
訴えられてまで居座る理由はないハズですが、ひょっとして“大沢国男氏のアストロ光学”がいたのでは?

3−28の新社屋も、随分縮小しているように見えます。(角地ではなくなっています)





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   ガラクマ - 2019/08/24(Sat) 22:07 No.11996

garakuma.gif ズームアイピースですが、T3にも付属しておりましたが、OTCマークのブッシュネルにも別のタイプが付属しておりました。
ブッシュネルのもズームですが、K22oで、8〜20o相当の倍率です。
残念ながら、博物館に運び込んでおりまして、手元にありません。

このズームアイピースのルーツは、五藤光学の地上用接眼鏡にあったのではないか、と思います。
資料はガリガリ博士ことK玉さんの資料が詳しいので、許可を頂き、参考にその部分を添付します。

地上用接眼鏡は、対物レンズと正立レンズと接眼レンズの位置関係で倍率が変わってしまいます。
遠くを見るのと近くをみるのとでも、倍率が変わります。
そのような特性を知って、ズームアイピースにしたのではないかと推定いたします。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/08/25(Sun) 10:47 No.11997

みなさま、こんにちわ。

エド様、住宅地図を掲載していただき、とても大きな情報です。
1959年〜60年、日本橋にアストロ販売(株)があり、供給元は、アストロ光学(株)
でした。アストロ販売(株)との繋がりも考えられますねぇ。

ガラクマ様、T3にも付いていたんですか。国内にも残っていたんですか。
実用性は、どうだったんでしょう。気になります。
接眼鏡は、K22mmの他の接眼鏡も使えるようですねぇ。
地上用接眼鏡の説明、ありがとうございます。
アクロマートハイゲンとケルナーとの関係も気になります。
(同じ管体に入ったAH40mm、K40mmが、ありますよねぇ。)
天体用のアクロマートハイゲンの起源は、地上用接眼鏡ではないかと最近では
考えています。
五藤光学研究所についても、再考したいです。
戦後の五藤斉三氏は、経営者として財界でも活躍し、太陽熱の利用にも取り組ん
でいます。戦後〜1950年までの五藤光学研究所の特許には、小島氏が関係してい
るものが結構あります。


芦田静馬氏は日本光学工業の方で、ズームレンズとの関係で見つけていた記事が
ありましたので、参考まで。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/oubutsu1932/26/9/26_9_407/_article

https://www.jstage.jst.go.jp/article/photogrst1934/7/4/7_4_127/_article




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/10/05(Sat) 19:25 No.12033

みなさま、こんにちわ。

アストロ光学(株)の取締役=設立メンバーと考えておりますが。

小島修介氏、滝沢徳治郎氏、堀口恵助氏、谷田貝幸雄氏、小林民八郎氏、
千葉勝雄氏、辰巳伝一氏、五十嵐伝吾氏

小島氏は、別として、堀口氏、谷田貝氏はその後も活躍されておりますが、
よくわからない事が多いです。
今回は、堀口氏についての疑問なのですが。

1954年11月にアストロ光学(株)が設立された時には、取締役として名を
連ねているのは、エド様の登記調査から明らかになりました。
(記事No.11294参照)

今まで気が付かなかったのですが、堀口氏の記載の住所地です。
読みずらいところもあり、世田谷区で五藤光学の近くとしか思っておらず
それ以上、気にしておりませんでした。
「世田谷区新町壱丁目壱壱五番地」と読めますねぇ。
五藤光学研究所の住所地です。住み込みだったのでしょうか。
1957年時点での住所も同じです。

堀口氏が個人で設立に参加したのか、五藤光学から送り込まれたのか。
堀口氏が何年も、住所を変えなかったというのも、変ですし。
堀口氏が五藤光学を辞めて、アストロ光学に行ったとしたら、住所も変える
でしょうし。
五藤氏も、堀口氏が五藤光学に勤務しながら、勝手にアストロ光学にも勤務
していたら、怒るでしょう。

そうなると、五藤氏が小島修介氏を支援していたと考えてもいいかも知れません。
今まで抱いていた観念が変わってしまいます。

小島氏がアストロ光学の社長を降りたのが、代表取締役を辞任した1957年
11月なのか、1957年末?なのかは定かではありませんが。

因みに、堀口氏が堀口光学を設立したのは1958年3月でした。
それに、1952年から五藤光学に勤務し、重役になった小森幸正氏がアストロ
光学工業に入ったのが1958年2月(アストロ光学の労働争議の最中です)です。
この時期、五藤光学に何かが、起こったのかもしれません。


エド様が掲載してくれました住宅地図に要町3丁目49番地が載っています。
(記事No.11995参照)
五十嵐 姓 の住居があります。
五十嵐伝吾氏の住居でしょうか。

ちょっとスレ違いでしたが、五藤光学の組立キットも載せておきます。
先に五藤望遠鏡のスレで紹介した青板ガラス使用の対物レンズの製品版だと思い
ます。
実際に青板ガラス使用なのかは、所蔵されている児玉様にお聞きするしかあ
りませんが。
ガラクマ様には、できれば、児玉様にお聞きしていただきたいのですが。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   エド - 2019/10/05(Sat) 23:29 No.12034

青色つきさま 皆様

堀口氏と五十嵐氏の住所がらみについての発見、さすがです。
私もそこまで気が付きませんでした。

堀口氏の住所が、数年間、五藤光学の住所のままだったなんて、本当に謎ですね。
五藤斉三氏にとっては、小島氏の動向が個人的にもビジネス上でも心配だったので、
堀口氏を手元に住まわせておけば、情報が入ってきやすいと考えたのかもしれませんね。
それにしても不思議であり、常識では考えにくいです。

五藤斉三氏の自伝にもあるように、労働争議の災禍は五藤光学も例外ではなかったと思います。
ひょっとしたら、堀口氏の住所の謎もその異常な状況がそうさせたのかもしれません。
小森幸正氏も労働争議に巻き込まれたひとりと考えられるかもです。
小森氏も小島氏同様、謎の多い方のようです。。。調査テーマが尽きませんね。

五藤光学でも組立キットがあったなんて、初めて知りました。
貴重な資料、ありがとうございます。
しかし、、、その当時3千円なんて、、、いったい誰が買えたのでしょうか。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/10/06(Sun) 13:22 No.12035

みなさま、こんにちわ。

エド様、アストロ光学の4cmの組立キットは2,700円前後(R-6がf=610mmとN-6
がf=500mm)と少しばかり安いですけど。(1956年)

続きですが、
アストロ光学につながる業界誌・商業誌・学会誌に載った広告の全てを管見
できたとしても、情報的には限られており、アストロ光学の登記簿を見返し
てみると、その情報量の多さを改めて認識しました。

小島修介氏については、
登記簿上では、1957年11月に代表取締役を辞任しますが、「特集文芸春秋」
1957年11月号の対談「光年の世界を覗いて」にはアストロ光学社長となって
おり、対談の時期は11月6日以降と推測されます。
引き続き、(代表権のない)社長だったのかも知れません。
更に登記簿を見ていくと、取締役としての辞任は1958年2月2日になっていま
した。労働争議が表立ってきた頃です。
この辺は、実際には、どうなっていたのかは不詳ですが。

堀口氏の取締役辞任は、小島氏が取締役を辞任した時期と同じか、それ以降
です。(文字が読み取り難いです。)

当初からの設立メンバーで残っていた小島氏、堀口氏、千葉氏は1958年に入
って次々と辞任していきます。五十嵐氏も1959年には清算人になりますが辞任
してしまいます。
清算結了は1961年9月18日でしたが、その後清算結了日が変更になり、最終的
には、1962年11月26日付けで会社は継続になりました。
また、株主総会での解散決議日は1959年11月25日でした。
アストロ光学は、毎年11月25日頃に株主総会もしくは取締役会を行っていた
ように見えます。

アストロ光学の本店所在地は、1958年2月5日付けで豊島区要町3丁目28番地から
西巣鴨2丁目21番地に移転しますが、早くも同年6月に要町3丁目28番地に戻って
きます。

※アストロ光学の本店のその後は、1969年11月26日付けで豊島区池袋6丁目1915
 番地に移転しています。

※アストロ光学工業とアストロ光学の関係は、ガラクマ様が見つけてくれた1958
 年2月の新聞記事でかなりわかってきましたが、1957年時の新しいアストロ光
 学の取締役と小松良基氏(アストロ光学工業の創業者)との繋がりがわかりませ
 ん。やっぱり、謎だらけです。

小島修介氏が、新たに高橋渉氏等と共に設立したマクロ光学工業ですが、
登記簿上での存続期間は、1958年3月11日〜1960年2月5日です。
株主総会の決議(1960年2月5日)による解散で、清算人には高橋渉氏が就いてい
ます。
アストロ光学の会社解散(1959年11月25日)が決まるまでの期間と、かなり重複
しています。更に言えば、設立時からのメンバーであった五十嵐氏が清算人を
辞任するまでの期間が実際の活動期間のようにも思えます。
小島氏が、自分が中心になって創ったアストロ光学の行く末が決まるまで、か
ってアストロ光学が手掛けた製品のフォローアップのための会社だったように
も思えます。

登記簿の記載内容変遷については表にした方が良いのですが、追々、整理しま
す。


小島氏の業績は望遠鏡のみならず月面図にも及びます。月面関係についても、
記しておかなければ、足跡が不完全ですので、次回は、月面観測について。
残念なことに、私はまだ「子供の科学」1954年2月号に付された月面図が見れて
いません。これは中野繁氏との共著になっています。
小島氏の最初の月面図が1951年1月に「天文と気象月面図」として地人書館から
発行されており、子供の科学版は、言うなれば誠文堂新光社版「月面図」でし
ょうか。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2019/12/18(Wed) 21:36 No.12127

みなさま、こんにちわ。

小島修介氏の月面観測の業績は、概略的には以下のようなものでしょうか。
とりあえず、まとめてみました。

@ 月面図の作成
  1951年 「天文と気象 月面図」地人書館
  1954年 「子供の科学 大月面図」『子供の科学』1954年2月号付録
       中野繁氏との共著となっています。残念ながら未見です。
  1958年 「最新版 月面の地図」地人書館
       (「新版 月面の地図」は、これを基にして改訂したもの)

  「天文と気象 月面図」(1951年)は直径54cm、改訂版の「最新版 月面の地図」      
  は直径が更に75cmに大きくなっている。
  1950年頃、東亜天文学会月面課用に75cmの白図の作成を試みている。
  ウイルキンスの大月面図(直径7m)に匹敵する詳細な月面図の作成を目標にして
  いたのが伺える。
  小島月面図以前には、国内では村上忠敬氏の「全天星図」(1940)収載の月面図、
  「天文年鑑」(1950)収載の月面図で記載されたクレーターの名称も約110程度でし
  た。
  本格的なものは、グッドエーカーやウイルキンスの月面図等の海外のものしかあり
  ませんでした。古いところでは、エルガーの月面図、いずれもBAA月面課長を務め
  ている。

A月面の地形の分類の試み
  1951年 「月面地形について」『天文と気象』1951年10月号掲載
  1958年 「月面のアバタ その成因をさぐる」『科学画報』1958年3月号掲載
  1960年 「月面の地形分類とその成因をさぐる」『天文と気象』1960年2月号掲載
       (執筆は1959年10月)

小島氏は基本的に月面地形の成因を外因説、隕石論を支持している。
  また、小島氏は"月面地形の分類"を未開拓の分野としており、自身の分類論を試案
  として提示している。
  「同じような地形を項目毎に分類し、それらの形状から年代的考察を加えると
  月面全体の地形が一つの体系にまとめられるように思える」と述べている。
   (「月面地形について」『天文と気象』1951年10月号)
小島氏は、最終的には月面の地形を25のタイプに分類している。

B月面観測ガイドの執筆
  1950年 「月面観測について」『天界』1950年12月号掲載
  1953年〜1954年 「毎月の天文欄」『子供の科学』1953年4月号〜1954年3月号
  1954年 「月面観測は小望遠鏡で」『子供の科学』1954年9月号掲載

「月面観測は小望遠鏡で」にはオニール橋のスケッチ(J.T.カール画)が載っている。
  小島氏自身、愛用の天体望遠鏡を持っていたような形跡もなく、観測をどのように
  おこなっていたのかが、見えてこない。
  中野繁氏、佐伯恒夫氏、村上定男氏は、自身の天体望遠鏡を持っていたのに、...。  
  

  国内で最初にオニール橋を紹介したものは、佐伯恒夫氏の「月面の天然橋など」
  『科学朝日』1954年8月号かなぁ、当時の状況が記されており、とても詳しい。
  
  オニール橋は1953年7月29日にアメリカのJ.J.オニールによって10cm屈折55倍で危難
の海の東岸に発見された天然橋。その発見の報が佐伯氏の許に届いたのは、翌年の
  1954年2月だったことが記されている。

  月面観測ガイドは、1955年には村上定男氏と中野繁氏の共著による「月面の観測」が
  「天文と気象」誌に数回にわたり掲載されます。    
   
C東亜天文学会月面課の再興
  OAA月面課の初代課長(1936年)は荒木健兒氏、二代目課長(1940年)が伊達英太郎氏
  (遊星面課長)が併任。戦中、伊達氏は適当な人材がいない為、適当な人材が見つかる
  までの期間と述べている。(「天界」1940年2月号)
  伊達氏が「天界」に寄せた月面課報は1回だけだと思われる。戦後、OAA月面課が
  月面課として活動を始めたのは、小島氏の尽力によるところが大きいと思う。
  小島氏が「天界」に寄せた最初の月面関係の書き物は、「月面観測課を再起しよう!!」
  (1949年10月号)という数行のもので、「目下、月面観測の原稿を盛んに書いています。
  (本学会より出版の予定)」と文頭に書かれています。
  続いて、「月面観測について」(1950年12月号)、「月面の研究(2)」(1952年2月号)
  「月面の研究(4)」(1955年1月号)が「天界」誌上に載ります。

  小島修介「月面の命名」という記事が「朝日新聞 東京版 朝刊」1952年5月15日に
  あります。肩書は東亜天文学会月面課です。記事の内容は、日本人で月面のクレータ
  ーに名前が付けられたのは佐伯恒夫氏だけで、日本のアマチュア天文家の力を結集し
  て、詳細な月面図を作り、クレーターにもっと日本人の名前を付けようと呼びかけて
  います。
  東亜天文学会における小島氏の立ち位置は、OAA月面課幹事でした。どうして、三代目
  月面課長にならなかったのか。なれなかったと言ったほうがいいのかもしれません。
  伊達氏は、火星観測に取り組んでおられましたが、戦後は体調を崩されていたようです。
  伊達氏が亡くなられる前後、短期間ですが、小島氏はOAA月面課長を名乗っていたようで
  すが、東亜天文学会が認めていた訳でもなさそうです。正式には、福井実信氏が1956年
  に三代目の月面課長になります。福井氏は、小島氏を月面課幹事と呼んでいます。
  福井氏は、OAA月面課を再スタートさせますが、ここに小島氏が参加したのかは定かでは
  ありません。
  1954年頃までの小島氏の書き物では、東亜天文学会月面課の肩書を付けているものが多
  く見受けられます。1958年以降は、"月面観測家"として活動されています。
  
  小島氏のOAA月面課に、どなたが参加していた(観測報告を送っていたのか)も調べる術
  も、もはやありませんが。孤軍奮闘していたように思えます。  
  
  小島氏の月面観測については、記事No.11582、11649も参照してください。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2020/01/09(Thu) 00:14 No.12133

みなさま、こんばんわ。

スイフトの望遠鏡マニュアル及びカタログを見つけましたので、ご覧ください。

https://wiki.telescopeclassics.com/wiki/Swift_Instruments,_Inc.

全文が読めます。

小島修介氏は、世界的には、スイフトの屈折赤道儀831、839、838のデザイナーと
言ったほうが良いのでしょうか。
小島月面図の製作者と言ったよりも、知られているのかも。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   ガラクマ - 2020/01/10(Fri) 20:57 No.12134

garakuma.gif 青色つきこ様、皆様

こんばんは。本年もよろしくお願いいたします。
ところで、いつもながら、よくいろいろ情報を見つけられますね。感心いたします。
私の場合、収集能力もありませんが、集中力が継続しません。
ご紹介頂いたSwiftの取説?。初めて拝見しました。設計者の紹介があったんですね。
このお話が始まった頃には、この件だけで一晩酒が飲めるような情報でしたが、青色つきこさんの調査で知恵がついてしまいましたので、2合くらいにしときます。

ちなみに、ボーっと天界を検索してみました。折角なので書き写します。

〇東亞天文協會觀測部月報(1936-11-25)遊星面課月報
・・・小島氏は益々水彩書の彩答を振はれて見事な美しい見取圖を途られる.渡邊氏は木星28枚,土星12枚,小島氏は木星12枚,土星2枚,月面シカ-ド山見取圖1枚で,月面の見取圖は初めての事とて珍らしい.只小島氏の木星の見取圃は一寸縞の位置が異ってゐる様なのは遺憾です.

〇表紙(1936-12-25)
 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167400/1/tnk000189_a.pdf

〇各地よりのたより(1940-02-25)伊達課長より
 さて御竃示の月面課長の後任の件,非常に遺憾乍ら,目下小生の知れる範園では僻論な御人が無いのを残念に存じます。同じ課長であるからには,A氏の如く名目丈けでなく、何か仕事をされる方をと思ひますと,一寸適當な方は無いと存じます.
五藤光學に前にゐた小島修介氏は月面観測とスケッチに興味を持っておられましたが,御自身の器械の無いのと,目下某高校に在高中の理由で適任でなく,京都の坂井氏も月面は第1のobjectらしいですが,器械が小さいのと,目下多忙の爲か?観測をやっておられないのとで,御すすめは致し襲ねます。例の火星の渡邊恒夫氏が今回召集解除になり,目下,京都某倉肚に勤めておられて,同氏が観測にカムバック下されば最適任なのですが・同氏の話では賞分不可能との事ですので,之も駄目といふ様な次第で、他に月面に特に興味を有っておられる方は無い様です.
 大燈,日本には英國の如く遊星や月の面を治績的に観測すると云ふ人の無いのは頗る遺憾に存じます・・・・・

〇南十字星? 神武の劍星?(1942-06-01) 卷頭隨筆 野尻抱影
 五月上旬の“東京日々”で護んだのでは,前大阪プラネタリウム勤務の一等兵氏が,近く,スラバヤから,南十字星を“肺武の創星”と改構することを,提案放下される由である.同氏が,南方で軍務の穿ら,天文普及に盤力されてるといふ話は,私としても慶賀に堪えない.(北方でも,前五藤光學研究所員伍長小島修介君が歎年來それをやって居られる.)しかし,氏が新聞の報道通りに提唱されるのだとなると,私個人として,多少,異議を申したい.・・・・・

青色つきこさんが、すでにどっかでおっしゃってたかもしれませんが。
[管理者修正]




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2020/01/11(Sat) 10:47 No.12135

みなさま、こんにちわ。本年もよろしくお願いします。
ガラクマ様、Swiftの取扱説明書に小島氏の件が記されていることは知っていましたが、オリジナルを
見れていませんでした。今回、オリジナルを見つけ、とても感激でした。ここは、海外のホームページ
に頼るほかありません。
「天界」は戦前の分は、京大の「紅」で見れますので、いまはとても便利ですねぇ。
小島氏自身の月面スケッチは、ご紹介の「アリスタルコス周辺」のものしか現時点では、私も見つけて
おりません。
月面図を作成しているので、もっとどこかに残っていても良いのにと思っておりましたが。

小島氏は、月の地形の成因に興味があったようで、月面地形分類の余技として月面図の作成を始めたよう
ですし、「日支事変の始め頃、上海の虹橋飛行場の爆撃写真があまり月面の環状山と光条に似ているのに
気が付き、それから月に興味を持った」とも言っています。
(「月面はなぜアバタになったのか?」『天文と気象』1960.2)

戦前の小島氏については、野尻氏の一連のアイヌの星名研究の中での記載等、伊達英太郎氏の「天界」誌上
の遊星面課報や月面課報等の記載、五藤氏の「天文夜話」での五藤光学研究所の創設時の話の中での記載で
しょうか。
小島氏が昭和8年頃に上京する前は、野尻氏は函館、五藤氏は小樽と言っておりますが、小島氏自身は函館
に居たように記しています。(「天文教材の扱い方(6)」『月刊教材教具』1950.12)

アストロ光学(株)の広告ですが、1956年の「科学朝日」にも掲載されていました。
もちろん、五藤光学、成東商会はそれ以前からも載っていましたが。
成東商会は、自作部品の提供で広く知られており、1957年の読売新聞の宇宙ブームの記事にもアストロ光学
(株)とともに出てきますし、1958年には新聞広告も載せています。人工衛星で売り上げも右肩上がりだっ
たんでしょうねぇ。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   エド - 2020/01/11(Sat) 22:37 No.12136

青色つきこ様 ガラクマ様 皆様

流石に“天界”の記述は詳細ですね。さらにその人事にも威厳も感じます。
また、戦火の中で次代を担うべき人材が兵隊にとられていた様子が伺えます。

小島氏も一旦はその課長人事の俎上に載ったことがわかりました。
しかし運悪く“高校在学中”(時期的に陸軍兵器学校のことか)であり、
また、毎日自由に使用できる望遠鏡を個人所有していない、との理由だったのですね。
いずれにしても、除隊していない状態では月面課長はさすがに無理だったろうと思います。

月面クレーターの成因を考察するに際して、雪原に雪つぶてを投げつけてみた、
という話をどこかで読みましたが、
爆弾の着弾痕から隕石説を確信したというのもまた面白い話ですね。
これはなかなか貴重な体験だと思います。

小島氏のアストロ光学は、人口衛星などでようやく胎動し始めた国内需要より、
景気も良く(天文)人口も多い北米市場に対して輸出を始めたことが明らかになりましたね。
アストロ光学にとって、1ドル360円のレートは、たとえ商社に販売マージンをとられても
充分利益が出たと思いますし、なにより、100台単位で受注がもらえれば
量産効率もグッと上がってコストも下がりますし。。。

ところで前スレで紹介しました修介氏の写真(下に再掲載します)を見た時から抱いていた疑問というか、、、
昭和30年代初頭に撮られた写真なんですが、修介氏の掛けているメガネと時計に違和感を感じました。
当時、こんなサングラスような形をしたシャレたフレームが国内でつくられていたのか。
普通のサラリーマンや大人は皆、まだすご〜くオヤジっぽい、野暮ったいメガネをしていた時代ですよね。
また、腕時計ですが、紳士用の時計にしてはケースがちょっと小ぶりです。
最近ボーイズサイズといっているものですが、これも当時の国産の時計とは思えません。
どうもこの2点はアメリカへ出張した折に購入したものではないかな〜と思っていました。。。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2020/01/26(Sun) 22:50 No.12147

みなさま、こんにちわ。

アストロ光学天体望遠鏡の使用説明書は、管見の限りでは1956年版と1958年版と言われている
ものの2件です。1958年版は、Cloudy Nightにあります。アストロ光学の住所が要町の28番地
になっていること及びH-3型が記載されていることから1957年版とも推測されます。
1958年とする根拠が示されていませんが、おそらくは1958年に購入したアストロ天体望遠鏡
(タスコ、メイフラワー、ラファエロ)に付いてきたものでしょう。CNをもっとよく調べれば
わかるかも知れません。

1956年版は、今も某古書店で購入できます。
1955年版があったとしても、おかしくはないでしょう。

1957年は、人工衛星ブームで、アストロ光学、成東商会も売り上げが伸びたようです。
読売新聞1957年11月6日掲載の記事にはアストロ光学はA光学、成東商会はS商会。
記事内容は興味深いですし、掲載のアストロ光学社内の組立作業中の写真も貴重です。

1957年には、中野繁氏の「四季の観測」が誠文堂新光社より出版されます。
この中に天体望遠鏡メーカー、市販されている天体望遠鏡のリストがあります。
アストロ光学(株)は、もちろんのこと、成東商会(城東商会になっています。土へんが余計
ですけど。「新版 四季の天体観測」でも城になっていますが。クレームつけられなかったの
か不思議です。正誤表があるのかも)
アストロ光学のアイピースにはTP-6mmの他にAR-5mmも載っています。興味深いところでは
バローレンズを売っていたのは、アストロ光学だけです。(TP-6mmもそうですが)





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2020/04/04(Sat) 20:52 No.12265

みなさま、こんばんわ。

中野繁、「四季の観測」、誠文堂新光社、1957 には、市販の望遠鏡及び接眼鏡の
リストが掲載されています。(貼付画像)

五:五藤光学  西:西村製作所 日:日本光学 精:日本精光 関:関西光学 
A:アストロ光学  

バローレンズは、この時期はアストロ光学のみ販売していたようです。
バローレンズを付けると1個の接眼レンズで2種類の倍率が使えますので、お手軽では
ありますが。評価が分かれるところです。
Swiftの天体望遠鏡を製造していた高橋喜一郎氏は、「天体望遠鏡のすべて1972年版」
ではバローレンズの像質については良くない旨を述べています。

1960年代の輸出向け天体望遠鏡には、附属品として付けられていますが、その走りは
アストロ光学でしょうか、附属品として組み入れたのは1960年のSwift、それは小島
氏に行き着くのかもしれません。

小島氏の日本テレスコープ(株)は、1960年5月の住所は板橋区志村西台町93です。
1970年代、エイコーにSwiftと相似した天体望遠鏡を提供した東邦光学工業(株)の住所
は板橋区志村西台町63です。東邦光学工業(株)についての情報はありませんでしょうか。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   エド - 2020/04/05(Sun) 00:43 No.12266

青色つきこ様 皆様

ついに小島氏足跡の最期「日本テレスコープ」まできましたね。

以前の調査では、日本テレスコープは練馬が本拠だったと記憶していますが、
起業は板橋の西台町だったということでしょうか?

東邦光学工業鰍ノついては、資料により若干の違いがあります。

*中島先生の科博資料によると1953年4月1日 板橋区志村清水町にて設立
*昭和56年 日本望遠鏡検査技術協会の資料によると、板橋区若木1−27−18 (JB251)
*昭和57年 板橋区の工業資料によると、住所は若木で同じですが、従業員数5人以下の零細企業となっています。

板橋区内にはここしか東邦光学工業鰍ヘ見当たりませんが、どうでしょうか?




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2020/04/19(Sun) 11:46 No.12267

みなさま、こんにちわ。

小島修介氏の望遠鏡製作者としての経歴については次の七つに区分できます。

@ 1933年〜   五藤光学研究所 【召集前】
A 1945年〜   五藤光学研究所 【戦後】
B 1951年〜   天象普及協会・アストロサービスセンター 【個人】
C 1953年〜   旭光学工業(株) 【大山工場 天体部長】
D 1954年11月〜 アストロ光学(株) 【設立 代表取締役→取締役】
E 1958年3月〜  マクロ光学工業(株) 【設立 技術担当の取締役】
F 1959年〜   日本テレスコープ工業(株)又は日本テレスコープ(株) 【設立 代表取締役】

新たな疑問として、
会葬状にある日本テレスコープ(株)は、日本テレスコープ工業(株)と同じなのか、それとも別会社
なのか。

日本テレスコープ工業(株)の住所は
『月面の地形分類とその成因をさぐる』「天文と気象」1960年2月号では(執筆は1959年10月)
  ●東京都練馬区下石神井2-1879

『新しい"月面地図"の特徴』「天文と気象」1959年8月号には日本テレスコープ工業K.K.とあるだけ
 
  
日本テレスコープ(株)の住所は1960年5月の会葬状では
  ●東京都板橋区志村西台町93

「最新 月面の地図」には日本テレスコープ社長とあります。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   ガラクマ - 2020/04/27(Mon) 21:25 No.12284

garakuma.gif ちょっと、話が前に戻りますが、海上保安庁海洋情報部さんから、旧勝浦水路観測所の旭光学16pの画像いただきました。
残念ながら、赤道儀がしっかり写った写真がありません。
最後の写真の、太陽投影板が特徴的です。
一番小さなファインダーは、よく見るやつですね。

微動ハンドルの引き回しは五藤光学の15cmとよく似てます。





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   青色つきこ - 2020/04/28(Tue) 07:28 No.12285

みなさま、こんにちわ。
ガラクマ様、貴重な資料ですねぇ。
上から撮られた1枚が、おもしろいです。
ありがとうございました。

旭光学が、いつ海上保安庁からの受注をとったのか。
それが、わかれば、小島氏の旭光学への入社の経緯も
解明できるかもしれません。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   エド - 2020/04/28(Tue) 23:25 No.12286

ガラクマさま 皆様

いやあ、モノクロ写真、イイですね〜
面白い形の雲も写っています。

木造、瓦屋根の観測室も味があります。
それにしても16センチ屈折、大きくて観測室ギリギリですね。
もともとは違う物が収まっていたのかもです。

それと、ガイドの鏡筒がキズだらけです。
新品でここに納入さらたセットではなく、他から移設したもののようにも見えます。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   もも - 2020/04/28(Tue) 23:36 No.12287

ガラクマさま、皆様。
こんばんわ、ももで〜す。

はて?この望遠鏡で何をしていたのでしょうかしらん?
との疑問が・・・
その昔(40年前くらい?)、限界線星食の観測をしていたことがありました。
水路部も限界線に30cmくらいの大きな反射赤道儀を持ち込んでいましたっけ〜
GPSもないJJYの時代でした。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   atoyan - 2020/04/29(Wed) 15:49 No.12288

tori2.gif 皆さん、こんにちはatoyanです。
ここしばらくは自宅待機ということで、本日はゴミ屋敷というよりカオス状態の自宅物置を整理しておりました。
古い天文雑誌なども出てきて、先日話題にした1970年代に宮城県の某天文同好会が自作した望遠鏡とドームの写真に見入ってしまった次第。
ところで、もも様が話していた30cmくらいの望遠鏡って、以前話題になった

日本アストロドーム・・・の望遠鏡?  投稿者: ガラクマ(管理人) 投稿日:2009/01/13(Tue) 23:31 No.3797

に出てくる望遠鏡ではありませんか。
アストロ光学の話題からそれてしまい申し訳ありません。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   - 2020/04/29(Wed) 16:38 No.12289

昔の雑誌に出ていた水路部の30cmは私の記憶では黒のスケルトンカセグレンで、恐らくももさんの記憶と同じです。同じ仕様で数台製造され、1台が水路部、もう1台は関西の学校に納品されドームに入っていました。しかし関西の方は関西大震災で建屋が取り壊しとなり、歴史のある望遠鏡ということで当時の協栄産業さんが人力手作業で救出。震災後のしばらくは協栄産業さんの倉庫で拝むことができました。その後どこかに納められたはずですが、行き先は私は残念ながら存じません。15cm反経さんならご存じかも。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   (^0^)コメト - 2020/04/29(Wed) 21:01 No.12290   HomePage

utyuujin1.gif ガラクマさん、皆さんこんばんは
本題から反れますが、ついでの事にここでカキコm(_ _)m

ももさん、皆さん、んだんだ!
水路部には2台のカセグレインが存在していたと思い、原さんの記憶とも連動します。
下里と白浜に設置され、西村製?の外観的には同じカセグレインであったようです。(^0^;
(cf、「日本の天文台」p51とp79参照)学校に設置は記載がありません。

2014年に「水路記念日9/12 天文・測地観測の歩み」と題する企画があり、行って来ました。
そこにはコレこの通りに30pカセグレインの主・斜鏡だけが展示されており、ご本尊は
写真右上のコマに写っております。(^0^8

これを見るとすっかりスケルトンではなく、鏡筒先端だけがシースルーの物で、すっかり
スケルトンは別のとこに在った物かもしれません。
(^0^)も記憶にあるフレーム構造の物だと思います。改造しての形状かは知りません。

勝浦に水路部の出店が在ったのは知りませんが、全国に展開していたのは確かで、大きさでは
30pカセグレイン、その後に確か60p?反射経緯式の自動動作になった記憶です。(^0^v
屈折が採用されていたのかな?とも思いますが、関西光学と来れば時代背景からして
珍しい気もし、多分、どこか(五藤とか。。?)のOEMの可能性もあります。果たして??





Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   もも - 2020/04/29(Wed) 21:17 No.12291

ガラクマさま、みなさま。
こんばんわ、ももで〜す。

>atoyanさま、原さま、コメトさま。
ワタシの記憶では鏡筒全部スケルトンだったような気がします。
小学校に陣取って、校庭にドンと置かれておりました。




Re: 【アストロ光学(株)その9】 小島修介氏の足跡 その2   (^0^)コメト - 2020/04/29(Wed) 21:38 No.12292   HomePage

utyuujin1.gif ガラクマさん、皆さんこんばんは

ももさん、水路部でも限界線星食の観測をやっていたのでせうか?
。。いんや、それをせずして水路部では無いので記憶は確かでつ。(^0^;
40年前の大事な限界線星食・・記憶に御座いません。

(^0^)の記憶にあるこのようなフレーム構造の望遠鏡は、北海道だけの
出張観測と思っていた1968年のイカロス接近で旭川の小学校校庭に設置された物で、
北海道新聞に写真が掲載されておりました。(^0^8

余談中の余談ですが、何故に旭川かと言って、梅雨の無い北海道が適地とした
からと聞いており、もしかしたらこの望遠鏡は旧東京天文台のだったかも。。(∼ ∼;
口径とかも30p?と記憶していて、カセグレインでありましたから同じ仕様でつ。


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