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【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏  投稿者: ガラクマ 投稿日:2018/08/20(Mon) 23:14 No.11276
garakuma.gif 長くなってきたので、折り返します。
その1"【アストロ光学梶z アストロ光学工業に非ず"; http://yumarin7.sakura.ne.jp/telbbsp/joyfulyy.cgi?getno=10666#getno10666

みなさんのご協力によって、現在最も小島氏の情報が集まっているのは、このサイトかもしれません。ありがとうございます。
以下、整理してみました(ほんとうは月まで載せたかったのですが)。

************************************************************

1951(S26)年 五藤光学研究所退職、アストロ・サービス・センター設立
1952(S27)年 (アストロ・サービス・センター倒産、年末頃?)旭光学工業株式会社に入社
1954(S29)年 アストロ光学叶ン立、社長は小島修介氏
1958(S33)年 アストロ光学鞄|産、
1958(S33)年(小島氏を外し)アストロ光学工業叶ン立
1958(S33)年 日本テレスコープ社設立、高橋製作所に赤道儀を外注しSwift社に輸出
1960(S35)年 小島氏他界、以後、高橋製作所がSwift社への輸出を受ける
1967(S42)年 高橋製作所、TS65o屈折赤道儀発売。本格的に天体望遠鏡業界に進出


旭光学は、短期間だけとのお話もありましたので、
@旭光学をいつ辞めたか?
A早く辞めたのだったら、アストロ光学の社長になるまでの間はなにをしてたか?
も知りたいところです。

ちなみにアストロ・サービスセンターの広告は、「天文と気象」では1951年4月と6月にあるだけでが、青色つきこさんの情報から3月前後に五藤光学を辞めて、アストロ・サービスセンターを作ったという事ですね。
月刊誌の締め切りが何日前かというところで、何月か推定できるでしょうか。


なおメルアドをリンクしてますので、将来、同人誌みたいのを作るとなったら、投稿などご協力いただける予定の方はご連絡ください。
[管理者修正]




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/08/21(Tue) 00:01 No.11278

申し訳ありません。
私の投稿によってこちらが下がってしまいました。

小島氏にまつわる謎はそれ以外にもたくさんあると思います。
例えば“修輔”なのか“修介”なのか、、どうして使い分けしていたのか?とか。

同人誌の件、本当に楽しみにしております!
こちらをROMにされてらっしゃる重鎮の方々の執筆を切に望みます。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/08/21(Tue) 07:00 No.11279

エド様、みなさま、こんにちは。
エド様の修輔と修介の件ですけど、1951年頃までは小島修介でしょうか。
それ以降は、小島修輔と思っています。

明らかにミスプリントな後藤修介もありました。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/08/21(Tue) 12:51 No.11280

みなさま、こんにちは。

「月刊教材教具」1954年10月号には次のような記載もあります。

「私は、メーカーの1人であるが、教材関係の製品は扱っていな
い。月産800万円に達する、国内生産額の六割を占める望遠鏡メ
ーカーの担当者で、すべて世界各国に輸出している。全然宣伝
していないので、一部の方々より知らないことと思う」

@教材関係を扱っていない
A世界各国に輸出している
ということから、旭光学工業だと思いますし、
この時期まで、旭光学工業に在職していたと思っています。
(文面から推測すれば)




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   ガラクマ - 2018/08/21(Tue) 21:46 No.11281

garakuma.gif 青色つきこ様

次々、新しい情報ありがとうございます。
1950年代の天体望遠鏡産業って面白いですね。
先にご紹介頂いた論文もすごく詳しく、為になりました。
1953年のアメリカ用光学品の輸出カタログにある業者リストを参考に添付いたします。

あと稚拙ではありますが、当時の天体望遠鏡産業について書いたことがある文書を添付します。

*****************************************************************

 戦後数ヶ月後には日本光学機器工業組合創立。翌年1月には光学精機工業協会設立。双眼鏡の輸出に尽力し、戦後3年目の1947年には双眼鏡の輸出が始まっている。天体望遠鏡においては1951年になるが、まだサンフランシスコ条約以前の占領下に産業の活動が開始されている。その後1950年代までに主な天体望遠鏡メーカーの多くが産声を上げた。
戦争時代に生まれたミネルヴァ光学は時期的に早すぎたのか1950年には活動停止。関西光学は時代に翻弄されながらも、1980年代までは天体望遠鏡を供給。他にアストロ光学及びアストロ光学工業、日野金属産業、ケンコー、光友社(ビクセン)等、後に活躍する多くのメーカーが望遠鏡販売を開始した。

〇理科教育振興法(1954〜)と国内向け教育用天文機材の拡充 (黎明期U)

 戦後、6・3制となり、理科教育振興法(理振法)が1954年4月に施行された。この法律に基づいた「理科教育のための設備の基準に関する細則」では、天体望遠鏡として、小中学校は有効径60o以上、赤道儀式、微動装置、台、太陽投影板、付属品付を、高校は有効径75o以上で、星用直視分光器の設置が義務づけられた。この理振法準拠の屈赤が五藤光学研究所や学校用理科教材を手広く手掛けていた島津製作所から多数供給された。
 1954年当時、小学校は(本校/分校)は22,036/4,768校、中学校は12,650/1,123校、以上合計40,577校、高校は本校3,256、分校及び定時制が1,350校、小・中学校に5万円、高校の本校に20万円としても合計約4万5千台、金額で30億円弱の需要が生まれたわけである。統計資料においては、当時の生産額は双眼鏡と望遠鏡の合計額での値しか残っていないが1952年、53年の13.6、13.7億円から、54年、55年の20.5億円、21.9億円と、約7億円の上昇がその効果と推定される。
 1950年代末になると、各地の新制大学、特に教育系大学では大型の望遠鏡が導入されはじめ、また、各県に理科教育センターができて、ドームに入った天体望遠鏡が各地に設置されるようになってきた。
 どちらも五藤光学のシェアーが大きく、8割近くが五藤光学の売上と推定する。

〇一部天体望遠鏡メーカーの輸出成功 (黎明期U、成長期)

 日本精光研究所(以下日本精光とする)が「初めての輸出」と広告が出たのが1951年9月の科学画報であった。
日本製光学製品カタログである「OPTICAL AND PRECISION INSTRUMENTS」の各号に天体望遠鏡の広告を掲載した天体望遠鏡メーカーを以下に示す。

1953 日本光学、旭光学工業(PENTAX、以下旭光学とする)
1955 日本光学
1957/58 日本光学、旭光学
1959/60 日本光学、旭光学、測機社(現ソキア)
1961/62 日本光学、日本精光、東和光器製作所(以下、東和光器)
1964/65 旭光学、東和光器
1966/67 旭光学、東和光器
1969/70 日本光学、旭光学、日本精光、東和光器
1973/74 日本光学、旭光学、日本精光、東和光器、五藤光学、アストロ光学工業
(以下アストロとする)、カートン光学
1978/79 日本精光、東和光機、五藤光学、カートン光学、日野金属産業





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/08/22(Wed) 00:18 No.11282

ガラクマ様、みなさま、こんばんわ。

1950年代の望遠鏡メーカーについて考えると、時間を忘れそうです。
掲載のメーカーのリスト、たいへん興味深いです。


日本精光研究所の広告は「月刊教材教具」にも載っていますので、
載せておきますねぇ。(左:1951年10月号、中央:1952年7月号)
日本精光研究所、対物レンズは自社研磨なんですよねぇ。
ついでに、ダウエルも載せておきます。(右:1951年3月号)
見にくいですが、住所は文京区丸山町六番地です。





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/08/22(Wed) 01:32 No.11283

青色つきこさま ガラクマさま みなさま こんばんは!

なんだか私の好物の話題ばかりで恐縮です。
精光が米人ファイン氏夫妻の訪問を受けて輸出を始めたのが1951年らしいので、左の写真はまさにその頃のものということになります。
鏡筒バンド式ではないので、赤緯軸バランスをとるのにウェイトのスライドで行うようになっていたなんて初めて知りました。
世田谷区野沢1丁目??現在の1丁目は若干場所が違いますので、やはり旧番地から変更が伺えます(会社の場所自体は変わっていないはずです)
久々にそこら界隈をストリートビューを見ると懐かしいです。
公園のまわりはあまり変わってないです。

ところで精光やダウエルではなくてアストロ光学の話題でしたよネ!

ガラクマさんの提示されたその会社リストを見ると、測量器のメーカーがたくさんあったことがわかります。
これらの住所もまた興味深いですが、板橋の光学エリア内ではないことが伺えます。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   ガラクマ - 2018/08/22(Wed) 23:17 No.11285

garakuma.gif 皆様。ごく少人数で盛り上がっておりますが、この手のお話は、マイブームでもありご容赦ください。

実は、次のネタ用にムーンウオッチャーの話題の仕込みをしていたのですが、そこで小島氏の記事を見つけました。
新聞記事ではアストロ光学のムーンウォッチャーは村山先生の設計らしいですね。

1950年台は、双眼鏡が先行し、日本光学、五藤光学、ダウエル以外の天体望遠鏡産業が産声を上げた時期で、知る人がだんだんいなくなってきてしまいました。
書きとめておかなければいけません。





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/08/23(Thu) 12:47 No.11288

ガラクマ 様、エド 様、みなさまこんにちわ。

1957年は人工衛星で社会が盛り上がっていた時期ですねぇ。
1957年は、これで小島氏の名前も散見されます。(特集文芸春秋1957-11)
1958年〜59年は一般的にはどうでしょうか。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/08/24(Fri) 23:08 No.11289

皆様こんばんは! 

投稿される方が少なくて恐縮です。

「もはや戦後ではない」と謳われたのが1956年。
神武景気が1955〜57年(6月)
 このとき三種の神器といわれてTVをはじめとする家電ブームが来る。。。
しかしこの景気も長続きせず、鍋底不景気が57年(6月)〜58年(6月)の1年間発生します。
この後、61年頃まで約3年間の岩戸景気が発します。。。
つまり、この当時は好景気と不景気が交互にめまぐるしく襲来したことになります。

この人工衛星ブームはちょうど神武景気が終わって、鍋底不景気が始まった頃ということができますが、普及版で8千円、標準型で2万円もしたのですから、小島氏の懐はかなり潤ったろうと思います。(8千円は当時の若いサラリーマンの手取り月収同等)
1958〜59年は岩戸景気の真っ只中ということになります。

にもかかわらず小島氏のアストロ光学は58年に倒産してしてしまいます。
ひょっとしてあと数ヶ月資金繰りができていれば岩戸景気が始まって倒産を免れたかもしれません。

五藤斎三氏から“うんと儲けて酒に溺れて”と誤解を受けたのはこの時期の羽振りの良い一面だけ見られてのことだと想像いたします。

若かりし村山先生も、博物館の一技官でありながら人工衛星観測の陣頭にたって八面六臂?の活躍をしていたなんて流石ですね〜。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/08/28(Tue) 08:59 No.11290

ガラクマ様、エド様、みなさま、こんにちわ。
長文になってしまいましたが、調査報告その2 です。


--- 1950年(昭和25年)について --- 

「月刊教材教具」の1950年は9月号と12月号の2冊しか国立国会図書館所蔵になって
いません。
1950年9月号には、五藤斉三氏「日蝕の話」がありますが、小島氏の「天文教材の
扱い方」は載っていません。1950年12月号に載っている小島氏の「天文教材の扱い
方」は(6)なので、9月号にも当然載っているものと思っていましたが、違いました。
国立国会図書館所蔵の「月刊教材教具」は1950年9月号が一番古いものです。

--- 1951年(昭和26年)について --- 

1951年9月号にアストロ・サービス・パブリシティ(三)が載っているので、それ以前
の号に(一)(二)が載っていないか調査しましたが、見つかりませんでした。
なお、国立国会図書館の所蔵は1951年4月号、7月号は欠です。
もしかしたら、ガラクマ様紹介の「天文と気象」1951年4月号、6月号掲載の広告が
アストロ・サービス・パブリシティ(一)(二)に相当するものかもしれません。

--- 1952年(昭和27年)について 追加情報 ---

@「月刊教材教具」1952年3月号にアストロ・サービス・パブリシティ(六)が載って
いました。

【疑問】アストロ・サービス・センターとアストロ光学(株)との関係で気になってい
たことがあります。ガラクマ様が載せてくれましたアストロ光学のカタログとアスト
ロ・サービス・センターの広告の振替口座番号が同じです。「振替東京61611番」
アストロ・サービス・センターが倒産したとしたら、同じ口座を使うでしょうか。
自主廃業したか、一時的に休業していただけではないでしょうか。
いずれにしても、口座はそのまま残っており、アストロ光学(株)に名義を変更し引き
続き使用したのでしょうか。なお、「天界」1959年10月号のアストロ光学工業(株)の
振替口座は「振替東京52499番」でした。
アストロ光学工業(株)設立直後の振替口座が、どうだったのか興味があります。
直後から「振替東京52499番」になっていたのでしょうか。

--- 1953年(昭和28年)について 追加情報 ---

@「月刊教材教具」1953年10月号でも小島氏の肩書は
「東亜天文学会月面課長 旭光学工業KK天体部長」です。

A「月刊教材教具」1953年11月号掲載の写真には小島氏と、小型屈折式経緯台と大型
屈折式赤道儀のイラストが入っています。小型屈折式経緯台は、レトロ望遠鏡の資料
室にある旭光学工業(株)1955年のカタログにあるJUPITER 60mm Telescopeと思われま
す。大型屈折式赤道儀は16p屈折赤道儀で極軸が折れている中折型です。
1953年11月号で既報と書いているので、一応完成していたのでしょうか。この中折型
ですが、五藤光学研究所や日本精光研究所、日本光学は採用していませんが、アスト
ロ光学の10p屈折式赤道儀に採用されています。小島氏が、旭光学工業のこれらの望
遠鏡の設計・製造に関わっていたかも知れません。
この16p屈折式赤道儀は、「天文月報」1955年3月号の勝浦水路観測所(和歌山県)の
6吋屈折だと思います。勝浦水路観測所への納入は1954年でしょうか。ただし、勝浦
水路観測所は1959年に閉所されております。
さすが旭光学工業、オールハードコーティングです。

B 1953年に日本宇宙協会なるものが設立されています。会員は、そうそうたる顔ぶ
れです。会員として名前が挙がっている方に、「子供の科学」の原田三夫氏がいます。
(日本宇宙協会の創立者です)
野尻「故小島修介君」『天界』1960年11月号の中で、アストロ光学創立祝賀会に野尻
氏と共に出席されています。アストロ光学と日本宇宙協会は、なにかと繋がりがあっ
たのでしょう。
なお、特集文芸春秋1957年11月号の対談では、日本宇宙協会常務理事は保積善太郎氏
です。

--- 1955年(昭和30年)について ---

五藤斉三氏が「渡米から帰国したら、小島氏が五藤光学研究所の幹部職員とかたらっ
て会社の乗っ取りを画策した」と言っている問題の時期です。

@この年、五藤光学研究所は株式会社五藤光学研究所に改組しています。
「天文月報」1955年10月号から株式会社になっています。
五藤光学研究所は、戦前の昭和12年に株式会社になりましたが、戦時中に軍の命令で
他社と合併しており、戦後は五藤斉三氏の自営で再出発しています。天体望遠鏡の需
要が無かったため、従業員を養うために払い下げ品を転売するなどしていたそうです。
(「50人の経営者」、時評社 1966)

A渡米の時期は、五藤斉三「アメリカ初旅行の印象」、『東商』1956年2月号に拠ると
1955年10月17日に日本を立ち、その年の暮れに帰国したと記されています。

この時期、五藤氏は東商、経団連理事、東京都民銀行発起人など50余りの公職に就いて
いたので、会社の経営は会社幹部に委ねていたかもしれませんし、経営をめぐって対立
が出てきたのかもしれません。会社の改組に伴って、谷田貝氏や堀口氏が退職したとも
考えられます。会社の規模拡大のために改組に踏み切っただけかもしれません。
プラネタリュウムの研究を始めるのもこの改組の前後らしいですし。

--- 1956年(昭和31年)について ---

東亜天文学会月面課長の伊達英太郎氏が亡くなられ後任として福井実信氏が就きました。
(福井「月面の観測について」『天界』1956年5月号)
文中で、「月面観測については、本誌には 既に小島幹事が数号にわたって 色々と書
いて居られるし、参考書も 殆んど その中に示されてある。」とし、小島氏を幹事と
しています。

なお、小島氏が自身で記している東亜天文学会員として肩書は、以下のとおりです。
但し、特に「天界」への寄稿については、いつ脱稿したのかは、わかりませんが。
いつ掲載するかは事務局の判断しだいでしょうし。

「月刊教材教具」1952年2月号 東亜天文学会月面課幹事
「月刊教材教具」1952年7月号 東亜天文学会月面課
「月刊教材教具」1953年1月号 東亜天文学会月面課長 

「天界」1952年2月号「月面の研究(2)」  月面課
「天界」1955年1月号「月面の研究(4)」  月面課
(月面の研究(1)と(3)が見つかりません。小島氏は(1)〜(4)を計画したが(1)(3)は未完成
だったのか。それとも事務局が何等かの理由で掲載しなかったのか。)

※ 東亜天文学会月面課の成り立ち、小島氏の功績に興味がありますので、引き続き調査
 します。「天界」誌上での月面課長は、
 初代(1936〜)荒木健児、2代目(1940〜)伊達英太郎、3代目(1956〜)福井実信 です。
 問題は、小島氏が、どう絡んでくるかです。

福井氏は1959年時点の月面課員名を記していますが、その中に小島氏の名前はありません。
(福井「月面課課報(1)」『天界』1959年6月号)

--- 1957年(昭和32年)について --- 

アストロ光学(株)の広告が「月刊教材教具」に載っていないか1957年10月号(100号記念誌)
を見てみましたが、載っていませんでした。この記念誌には、五藤斉三氏も寄稿しており、
創刊以来、五藤光学研究所が広告を掲載してきた旨を記しています。

※ エド様の 小島氏が召集されたのが、陸軍なのか海軍なのか の件ですが、
  野尻「故小島修介君」『天界』1960年11月号に拠れば相模原の陸軍兵器学校を首席で
 卒業したそうです。
  満州に行ったそうですし、また、野尻「南十字星?神武の剣星?:巻頭随筆」『天界』
 1942年6月号に拠れば、伍長で北方にいたようです。ここでの北方とは満州のことだと思
 います。
  サイパン島の件が、正しいとしたら、すごーく幸運だとしか言いようがありません。

--- 1958年(昭和33年)について --- 

アストロ光学が倒産し、アストロ光学工業が設立した年です。「天文と気象」1974年1月号か
ら「テレスコメーカー訪問」の連載が始まり、最初はアストロ光学工業でした。この記事で
は、アストロ光学工業の設立を昭和32年2月としています。また、第二回が高橋製作所なので
すが天体望遠鏡を製作するようになったのを昭和43年からと記しています。
ガラクマ様が作成してくれましたアストロ〜TSの経歴と両方とも1年ずれています。
アストロ光学工業、高橋製作所のホームページ上の沿革とも違います。
「天文と気象」の記事を書かれた方は、数え年を基本に考えているのでしょうか。
「高橋製作所の創立したのは昭和7年7月、だから、ことしは数えて42年目にあたる。」記事は「天文と気象」
1974年4月号に掲載されています。昭和7年7月=1932年7月、昭和49年4月=1974年4月、初年は0年として創立して
42年、初年を1年として43年です。


                                   以上 青色つきこ でした。
                                      (2018.8.28)

Download:11290_4.pdf11290_4.pdf





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/08/29(Wed) 21:58 No.11292

青色つきこ様 ガラクマさま 皆様 こんばんは!

さて、古い専門冊子である「月刊教材」や「天界」の小島氏の投稿を丹念に調べられていますね。
こうして小島氏の新たな足跡が発掘されて、なんか考古学的な側面を感じています。

@微妙な年号のズレについて
 会社の設立まで“数え”でカウントしていたなんてちょっと考えにくいですが、昭和40年代頃ま では“数え”でカウントするお年寄りが身の回りにいたのを思い出しました。
 しかし、会社設立の“年号”を申し合わせたように1年間違えるのは不自然です。
 私は会社設立準備期間を含めているのではないかと解釈します。
Aアストロサービスセンターと旧アストロ光学の振替口座が同じなのは、どちらも小島氏の個人口座 だからではないでしょうか?
 小島氏はどうも一人でいくつもの会社や法人を同時に起こしていたと想像します。
 ちゃんと登記していない“自称”なら簡単です。
 今はそういうことをするのは詐欺師的ですが、そういうことが流行った時代だと思います。
 まだ戦後のドサクサ的風潮が残っていた時代ですし、経済はバブルでしたし。。。
 私の親父もそういう個人会社を興してはツブし、をやったそうです。
 先般の“ダウエル”も会社の名前がコロコロ変わってましたね。(看板を削ったり)
 一方、新生アストロ光学工業は銀行の指導が入っていますから、そのへんはきちんとしていたはず
B五藤斉三氏が戦後いろいろな財団、法人の設立に関与していたとは驚きました。
 さすが高知(土佐)の出身ですね。そういう気概を感じます。
C小島氏の自称の肩書きについては、かなり怪しいので、そこを追いかけても矛盾が出てくるだけ
 かもしれません。
 小島氏はやはりそいう変な“勇み足”が過ぎる人格だったようで、そこもいまひとつ人望が得られ
 なかった原因ではないかと推察します。
 悪気があってやっているのではなく、あくまで性格の“病気”だと思いますが。
D陸軍の兵器学校を卒業したとのことで、そこで機械工学の基礎を学んだと思います。
 光学兵器の授業もあったと思うので、戦後おおいに役に立ったはずです。
 その軍隊での管理職的経験も、戦後、中小企業の設立に大いに役立ったはずです。
 しかし、あくまで根が技術屋さんらしく経営的センスがなかったことは悲運です。

*「天界」1960年11月号の野尻氏の寄稿分を読んでみたいです。
  ネット上で読めるサイトがありますでしょうか?




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   ガラクマ - 2018/08/29(Wed) 22:55 No.11293

garakuma.gif 情報量が多すぎて、頭がパニクリそうです。お詳しい情報ありがとうございます。
ちょっと別の事を調べてまして、現時点では集中できそうにありません。
究明研究の方、よろしくお願いいたします。時間できましたら、整理してみます。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/08/30(Thu) 20:45 No.11294

本日、池袋の法務局へ再度アタックし、とうとう「アストロ光学」の登記簿を発見しました!
そして面白い発見もありました。
小島氏が興したアストロ光学は、昭和34年に一旦は解散するのですが、昭和49年まで要町や西巣鴨、池袋を転々としながら細々と小島氏とは無関係に営業されていたことがわかりました。

情報量が多いので、2回に分けて投稿いたします。

まずは小島氏の「アストロ光学」の登記簿の1&2枚目です。
字が達筆、電子化で擦れていて、会社解散によって赤エンピツで棒線が引いてあるので、読取りにくいです。

会社登記は 昭和29年11月26日です。(2枚目左端)
代表者は小島修介氏。
取締役として滝沢氏、堀口氏、谷田貝氏など7名が名前を連ねています。
資本金は50万円。発行株式が2千株(1株5百円)とあります。
本店の場所は 豊島区千早町2丁目30番地(旧番地) 
(これは現在のミザールテックから100mくらいしか離れていません!)
目的は勿論 “望遠鏡、双眼鏡、光学機器の製造、販売、貿易業”となっています。

2枚目の左下側が解散時の記述になります。
原本が痛んでいてすごく読みにくいのですが、
“株主総会の決議により昭和34年11月25日解散云々”右昭和35年7月13日とあります。
解散時の精算人は浅原栄二郎氏となっています。

登記簿としての記述は設立からいきなり解散となるのですが、
このほかに4ページ分の予備欄が付いてまして、その内容がまた興味深いです。

*ガラクマさま 登記簿の画像アップがクレームつきましたら削除ください。
 すでに消滅した会社の内容ですので、まあ大丈夫かな〜とは思いますが。。。
 最近、登記簿はPCで誰でも閲覧できるものですので、、、





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/08/30(Thu) 23:02 No.11295

エド様、ガラクマ様、みなさま、こんばんわ。

エド様、すごい、世紀の大発見! アストロ光学研究史に残る一大発見です。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   ヘリコイド - 2018/08/30(Thu) 23:05 No.11296

この話、とても興味深く読ませて頂いてます。
直接的には関係ない話で恐縮ですが、ふと思った事があります。

@“秀介”なのか“修輔”なのか?
私の父親の戸籍上の名前は“●雄”なのですが、実生活では“●男”と“●夫”の計3種類を使い分けていました。
不思議に思いその理由を尋ねたところ、会社関係の人、友人/知人/親戚、それ以外(商品の注文や予約時等)、で使い分けているとのこと。
更に何で?と聞くと、手紙が来た時に名前が似た人だと勘違いする事があるし、その人の奥さんからから礼状や訃報などが来たら、もはや誰だか判らない可能性がある。字を使い分けていれば、宛名の時だけで、相手との関係性と重要度が一目でわかるから。だと。
ちょっと、感心しました。
昔は、社会的にも、そのあたりは寛容だった模様です。

A 会社の設立年
会社の設立1周年記念って、実質2年目に入ってからやりますよね。
つまり、自分の会社について可人に説明する時、事業を始めて何年目と言う時と、設立何周年と言う時で、1年ズレが生じます。
そんなところが原因ではないでしょうか?




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/08/31(Fri) 12:51 No.11298

みなさま、こんにちは。
ヘリコイド様、ありがとうございます。参考になります。
Aの件は、やっぱり記事を書いた方が、そのような認識をお持ちだったということでしょうか。

エド様、天界は1943年までは京大の紅にありますが、それ以降はネット上にはないと思います。
メルアド、リンクしてますか。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/08/31(Fri) 20:58 No.11299

青色つきこさま 皆様 こんばんは!

ヘリコイドさまのおっしゃるとうり、個人が勝手に当て字で名前を変化させるのが流行ったようです。
青色つきこさま。
“紅”にないのは確かに残念でした。
面白いのは、国会図書館の窓口で相談したところ、やはり“紅”を出してくれたのには驚きました。
結局、前スレでガラクマさんが紹介してくれていたんですネ。忘れていました。。。

さて、登記簿、第2弾 解散への道です。
登記簿3〜6頁が予備欄というか“付記”になるわけですが、これまたとても読み取りにくいんです。
まあ、読めるところだけかいつまんで年代順に書きます。

*昭和30年3月23日
  新株発行により2千株→4千株に増資
*昭和31年2月5日
  監査役が内藤氏から浅原栄二郎氏に代わります。
  どうもこの浅原氏がアストロ光学の後半のキーマンのです。後に代表となり精算を担当します。
*昭和32年5月7日
  本店を豊島区千早町からお隣の要町へ移転登記します。(ごく近所です)
  要町のこの場所はバタヤ部落の跡地です。
  実際の移転は1月頃に行われたようです。
*昭和32年4月14日
  取締役数人が辞任しています。
*昭和32年11月5日
  代表取締役が浅原栄二郎氏と小島氏の連名に変わっています。
  取締役数人が辞任しています。
*昭和32年11月12日
  代表が千葉勝雄氏に代わっています。
  小沢三男氏、木堀秀夫氏が取締役に就任しています。
*この前後で取締役が何回も入れ替わっています。
*昭和34年11月25日
  株主総会の決議により解散
*昭和37年11月10日
  3回目の「精算桔了の年月日を抹消する」との記録。
*昭和37年11月26日
  “会社を継続した”との記述があります。
  営業目的に「雑貨品の輸出入貿易業」を追加して、「アストロ工業」が継続する記述があります。

@会社を設立して4ヶ月で新株を発行しています。
 これは要町に工場社屋を建設するための資金集めと思います。
A31年、浅原栄二郎氏なる人物が監査役として登場します。
 この方が最後に会社精算を見届ける(実行?)ことから、技術職ではないと思われます。
B短期間で取締役や監査役がバタバタ入替わっていて、それが全部記録されており煩雑です。
C小島氏の住所は終始「中野区仲町18番地」です。
D銀行の名前は読める範囲では出てきません。
 銀行に融資を依頼できるほど信用は築けていない(長期間の会社運営実績がない)でしょう。
E最後の付記から、会社は消滅せずに継続されるとあります。
 これは「アストロ光学工業」のことではなく、第2の「アストロ光学」のことです。
 この「続アストロ光学」登記簿が余計に2通見つかってしまったため、
 私の昼飯代が無くなってしまいました。

私の登記簿を読み砕く能力が低く、会社が解散した直接の原因はこの登記簿からは見えてきません。

天界での野尻先生の小島氏を偲ぶ文面に、「小島氏またはアストロ光学の評判が良くない」、「小島氏は常に焦っているようだった」とあります。

小島氏のアストロ光学がうまく存続しなかった理由はどこにあったのでしょう?





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/01(Sat) 09:56 No.11300

エド様、みなさまこんにちわ。
貴重ですねぇ。いままで、わかったことをもう一度整理しないといけませんねぇ。

アストロ光学の不動産登記簿もみたいですねぇ。
要町の工場の所有権が、どうなっているのか。
アストロ光学工業への委譲の経緯もわかるかもしれません。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/01(Sat) 23:26 No.11301

青色つきこさま みなさま こんばんは!

そうなんです。
要町の工場がその後誰にどのように活用されたか、たくさんの疑問があるのですが、それは次回に回して、今度は小島氏なき後の第三のアストロ光学の登記内容です。

+映画「第三の男」は死んだとされていた男が実は生きていて、第三の男として暗躍する話ですが、
 ある意味、これに似ています。

*昭和37年11月26日(写真1)
 一旦解散して終わったと思っていた「アストロ光学」は従来の望遠鏡製造販売に“雑貨の貿易”を
 加え、代表に大沢国男氏(住所:横浜市)が立って復活します。
 取締役に森田堅固氏、西徳治氏とあります。
*昭和39年11月20日(写真2)
 上記3名の取締役が全員退任します。
*昭和41年11月26日(写真3)
 本店が要町から同区池袋6丁目1915番地へ移転しています。
 注目は右下に会社設立年として昭和29年11月26日とちゃんと書いてあります。
*昭和46年11月26日(写真4)
 代表取締役として渡辺晶五氏が就任しています。
 取締役は西氏、森田氏は替わらずです。
 社長だった大沢氏は監査役になっています。
*昭和49年12月3日(写真5)
 “解散”と記録されています。
 この終わり方はどうも自然消滅くさいです。
 定期的に役所へ出すべき書類を出さないので、消滅したと判断されたようです。
 たぶん、昭和48年のオイルショックが影響していると思います。

以上より、小島氏の興した「アストロ光学」は昭和48年頃まで活動されていたことがわかりました。
「第三のアストロ光学」を継いだ大沢氏、森田氏、西氏、渡辺氏らの素性がわからないのがはがゆいです。

不思議なのは、「アストロ光学工業」も「第三のアストロ光学」も要町の工場社屋を堂々と登記、宣伝に使用していたことです。(青色つきこさまのご指摘のとうり、これが新たなナゾです)

次回はこれについて考えます。





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/02(Sun) 20:09 No.11304

エド様、みなさま、こんばんわ。

会社の登記簿から真実に迫る、すごーい調査ですねぇ。
知られざる事実が、たくさん出てきて、ワクワクします。
ここまでのアストロ光学に関する知見に一石を投じるものでは
ないでしょうか。
小島修輔氏が1957年11月にアストロ光学(株)の経営から身を
引いたのは、如何なる理由だったのでしょうか。
(労働争議、資金繰り、経営方針の対立、身体をこわした、乗っ取り、身売り)
一応、株式会社なので、小島修輔氏は株式だけは保有していたかもしれませんねぇ。

ソ連のスプートニクが打ち上げられて人工衛星観測網が緊急に整備されていった
時期で、人工衛星用望遠鏡の需要が高まったとも思うのですが。
しかし、アストロ光学(株)の経営は厳しかったのでしょうか。
人工衛星用望遠鏡は、米軍の払い下げ品や日本光学製、五藤光学研究所製、ユニ
トロン製もあり、競争もあったと思います。
(ガラクマ様のムーンウォッチ計画ネタで出てくるのかと、思いますが。)

「第三のアストロ光学」については、推測ですが、思い当たるところがありますので、
整理して、改めて書きますねぇ。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/02(Sun) 22:17 No.11305

青色つきこさま みなさま こんばんは!

そうですね。
本当は昨年の前スレで年代の同定がすんなりできていたら、登記簿を調べようとは思わなかったです。
実は前スレから「バタヤ部落」や「在日韓国人社会」について興味が沸いてしまって、小島氏については忘れかけていました。(こちらも濃い〜世界です)

ところで1点、重要な誤解をしておりました。
“千川(要町)のバタヤ部落”が何年に立退きされていたかを調べていたら、小島氏が工場社屋を建設した昭和31年には、付近の住民運動が起こってはいたのですが、立退きはまだ始まっていなかったことがわかりました。
旧住所の場所を再確認したところ、バタヤ部落の隣でした。
バタヤ部落は交差点に面したところ(34番地)で、アストロ光学はその東隣(28番地)です。

前スレ冒頭にガラクマさんが提示された貴重なアストロ光学のカタログ1ページ目に、
千川小学校の景色とその北側300mくらいにある、“大谷口の給水塔”のてっぺんの写真があります。(添付写真参照ください)

千川小学校はカタログの写真でも地図上でも工場のすぐ裏という位置関係です。

同カタログに社屋屋上から赤道儀を寝かせて小学校を見下ろした写真がありますが、
この感じですと工場は2〜3階建てくらいの感じです。

人口衛星の観測は一時の流行でしかなく、他社も競合機種を販売していたなら確かにあまり売上げには寄与しなかったかもしれません。
社長以下7人の取締役と現場作業者の方々全員が糊口を拭うにはコンスタントな売上げが必要です。

前スレで議論されたように、この時期はアマチュアや中学生がどんどん買ってくれる時代にはまだなっていなかったのは明白です。
理振法の施行がちょうど昭和29年4月ですので、アストロ光学にとってはビッグチャンスだったはずですが、需要発生に間に合わなかったのかもしれません。





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/02(Sun) 23:40 No.11306

エド様、ガラクマ様、みなさま、こんばんわ。

エド様の登記簿調査で1957年(昭和32年)11月12日付けで小沢三男氏が取締役に就いた
ことがわかりました。
先のスレでガラクマ様が、アストロ光学工業(株)の挨拶状を載せていましたが、
その差出人は「アストロ光学工業(株)会長 小沢三男」になっています。
アストロ光学(株)とアストロ光学工業(株)、繋がりましたねぇ。
アストロ光学工業(株)の社長は小松吉基氏なので、アストロ光学(株)との関係は
無いのかと思っていました。
今、気が付きました。
それから、千川小学校の件も、カタログの不鮮明な写真から、突き止めていくなんて
すごいです。

先に書いた「第三のアストロ光学」の件ですが、「アストロ光学工業(株)
サービスセンター」のことだと思います。
天文月報のアストロ光学工業(株)の広告を追ってみると、サービスセンターの住所
が池袋です。また、サービスセンターは1974年2月号の掲載を最後に、その後はありま
せん。小沢氏のことで、気持ちが一杯になったので、サービスセンターの件は明日に
します。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/03(Mon) 22:10 No.11310

青色つきこさま 皆様 こんばんは。

解散寸前に取締役になられた小沢三男氏が新生アストロ光学工業の“会長”として在社し続けられたとのこと、ありがとうございます。
小沢氏の出所は不明ですが、会長になられるくらいですからご年配の方だったと想像いたします。
そして、「アストロ光学」と「アストロ光学工業」は数年間、同じマークのもと、豊島区要町の新しい工場内で仲良く分担して仕事をした?と想像できます。

さて、ふと各年代を見ていたらまたとんでもないことに気が付いてしましました!

*アストロ光学の登記が昭和29年11月26日
*小島氏らが五藤斉三氏の帰国を待って小島氏達がクーデターを起こすのが昭和29年12月(29年暮)

ということは、クーデターを起こした時点では既に仲間と「アストロ光学」を起こし、
登記まで済ませていたことになります!

ならば、このクーデターは“ダメ元”で起こしたことになりませんか?
五藤氏の性格上、簡単に首を縦に振ることはなさそうだと予想した上で、あらかじめ別会社を興していたのかもしれません。
なんとも不思議な話ではあります。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/03(Mon) 23:38 No.11311

エド様、みなさま、こんばんわ。

「第三のアストロ光学」ですが、「アストロ光学工業(株)サービスセンター」
が「第三のアストロ光学」だと思います。
アストロ光学工業(株)の営業部門を会社組織にしたもの。
または、アストロ光学工業(株)のサービスセンターを運営していたのがアスト
ロ光学(株)だったと思います。
アストロ光学工業(株)の天文月報上の広告をまとめてみました。
(添付のPDFファイルです。)
アストロ光学工業(株)の広告は1962年12月号で一旦終了します。
そして、1968年7月号から広告が再び掲載されます。
この号からサービスセンターが併記され、住所も池袋6-1915です。
「第三のアストロ光学」が正に移転した住所です。サービスセンターの名称は
1974年1月号の広告を最後に後は出てきません。
アストロ光学工業(株)に実質吸収されたと思います。

なお、天文月報上の広告だけしか見ておりませんが、「第三のアストロ光学」の
設立が1962年11月26日とのことなので、1962年12月号又は1963年1月号の他の雑誌
の広告にサービスセンターが併記されていれば、「第三のアストロ光学」と断定
しても良いと思います。

五藤斉三氏が渡米したのは1955年(昭和30年)10月17日からこの年の暮れまでです。
東京商工会議所の「東商」1956年2月号に五藤斉三氏自身が寄稿しています。
渡米から帰国したらクーデターに遭ったというのは、ちょっと信じがたい気もし
ます。
1954年(昭和29年)だとしたら、五藤光学研究所は個人会社です。
1955年(昭和30年)に再び株式会社に改組し、この前後からブラネタリウムの開発を
進めています。

アストロ光学の10cm屈折の赤道儀、中折れ式ですが、あの赤道儀に似ていると思う
のは私だけでしょうか。(初期のケンコーとか、東和とか、パノップとかの、あの
赤道儀に)

アストロ光学工業(株)の本社の住所は、大手町2-2 野村ビルですが、
ここには戦後、大和銀行が本店・営業部を置いていたようです。
アストロ光学工業(株)のバックは大和銀行だったのでしょうか。
野村ビルに、本当に入れたものなのでしょうか。気になるところです。

Download:11311_1.pdf11311_1.pdf





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/04(Tue) 16:40 No.11313

青色つきこさま 皆様 こんにちは!台風ですね!

さて、ポカミスをやってしまいました。
五藤斉三氏がアメリカから帰国したのは昭和30年暮れ(12月)でした。
帰国直後に小島氏のクーデターに遭ったとしても、“アストロ光学”の登記から1年以上経過していて、不自然です。
わざわざ五藤光学を乗っ取る理由はありません。
一方、「五藤斉三自伝」での記述では、帰国直後にクーデター事件があったと書いてあります。
確か前スレでもガラクマさんがこの矛盾を示唆していたと思います。

このクーデターは昭和29年の夏頃に起きたと考えるのが成り行き上自然です。
アストロ光学の誕生がこのクーデターを発端としているなら、ここはぜひクリアにすべきポイントと思います。

*第三のアストロ光学は登記上別会社でありながら、新生アストロ光学の一部門のような機能を果たし、宣伝の中でも“サービスセンター”と謳っていたのは想像するととても興味深いことです。
普通、“サービス”=“修理部門”だなと解釈するのですが、そうではなくて、小島氏の昔の個人会社であるネーミングを復活させ、実質的には中核的な存在だったと思うとなんだか愉快ではあります。

*池袋6丁目1915番地(旧住居表示)は池袋本町2−38−15と同じ場所です。
  今も昔もちょっと“危ない”地帯です。
  バタヤ部落の隣とか、北池袋とか、やはり資金不足だったのかと想像します。

*新生アストロ光学は格好良く大手町にヘッドオフィスを構えました。
 家賃の心配をしてしまいますが、ワンフロアではなく10人程度入る1室でも中小企業ですから充分機能したと思います。
野村グループのメインバンクはかつて旧大和銀行で、現りそな銀行です。(現在の関係は薄いらしいです)
よって、青色つきこさまが想像されているとうり大和銀行つながりかな〜と思いますが、、、

*中折れ式の赤道儀に関して
 確かにその後の安価な赤道儀はこの構造が散見されました。
 しかし、重心である赤緯軸と高度クランプ部が離れすぎていて、いわゆるカックンが起こり易い欠点があります。
 これは何かの防止対策をすれば済みますが、構造的に赤経軸を長くすることができないので、
 剛性と精度の点で不利です。(高度クランプが貫通でなければ長くできますが、、、)
 唯一の利点は鏡筒がピラーからより離れることでしょうか。
 やはり高度クランプは赤経軸の下側にあるほうが視覚的にもバランス良く、主流と思います。

ところで、古いカタログを見ていると“日本アストロドーム”なる社名で広告が出てきます。
(所在地:大田区上池上町880番地)
軸足が望遠鏡からドームに移行しているのは、五藤光学と同じ傾向とも思えます。
発注する側としては、望遠鏡とドーム建設が同一会社のほうが安心なのは当然です。。。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/04(Tue) 23:54 No.11314

エド様、みなさま、こんばんわ。
クーデターの件については、小島氏が絡んでいるとしたら、1954年でしょうねぇ。
五藤氏の記載を傍証するものが欲しいです。
五藤氏は、「東商」などに結構、中小企業経営や税制についての寄稿をしています。
その中で、会社経営の苦労話とか吐露していれば、ヒントがあるかも知れません。
小島氏については、利用できる資料が乏しいです。特に1954年に「月刊教材教具」
の連載を終えたあとは、月面についての寄稿だけと言ってもいいです。
どう調査していくかが、課題ですねぇ。
ところで、日本アストロドームといえば小森幸正氏ですが、1955年は五藤光学で
天文部長です。1958年のアストロ光学工業(株)の設立に加わっています。
その後、日本アストロドームを設立しますが、何で五藤光学をお辞めになったの
か。五藤氏の自伝の中に小森氏についての記事もあるようですが、未見です。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/07(Fri) 23:07 No.11315

青色つきこさま 皆様 こんばんは。

ここ数日、「クーデターはいつ起こったのか」考えていました。
場合わけなどして仮説をたててみましたが、どれもしっくりきません。
どうも合わないジグソーパズルのようです。
五藤氏の“米国から帰ってきたら、、、”という明瞭な自伝の内容すら否定せざるえないなんて。。。

一方、昭和30年に五藤光学は個人会社から株式会社へ登記し直したという事実は、そのクーデターも遠因になっていたと考えると昭和29年説ならツジツマが合います。

平成も終わろうとしていますが、昭和30年頃のことですらもう“藪の中”になってしまっているのかと。。。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   - 2018/09/08(Sat) 11:54 No.11316

乗っ取りの時期の件ですが、商流を得るために後になってMアンドAが必要になる、と言うケースはベンチャー企業立ち上げの際に結構聞きます。技術や製造は工場研究所ですみますが、売るルートは簡単に行きません。植物工場で農業に進出したが販路がなくて苦労するとか。。。よくある話です。とあるバイオベンチャーは販路確保のため、自社より大きな種苗卸問屋を買収したほどです。
アイデアマンで工夫に満ちた新製品を作っても、実績がないとなかなか口座を作ってくれなかったり、流通に載せるには壁が高かったのではないか?
現在では尖った趣味人向けの特殊な製品でも、ネット経由で世界中に流せるのでビジネスが成立しますが、1950年代はそんな時代ではありませんでした。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/09(Sun) 21:53 No.11319

青色つきこさま 皆様 こんばんは。

原さま ご意見ありがとうございます。

五藤氏の自伝中のクーデターの描写が“社内で起きた”ようなニュアンスで書かれていたので、そう思い込んでいたのですが、
社外からの乗取りと考えれば矛盾なくストーリーは完成します。
理振法により学校からの引合いはあれど、歴史も実績もないアストロ光学が五藤光学を相手に苦戦したであろうことは想像に難くありません。

五藤氏の自伝ではまた“誰かにそそのかされたのせよ・・”と表現されており、小島氏は祭り上げられただけととられています。
このクーデターの影の首謀者が誰だったのか、ということまでわかればストーリーはもっと面白くなります。

ところで“谷オルソ”で有名な谷光学さんは、この要町のすぐ隣町「板橋区 向原2丁目」にあります。
谷田貝氏なら全ての真実をご存知と思います。。。

今回のことでいろいろ住所をみることになりましたが、千川町、千早町、要町界隈に関係者の住まいや会社が数社あったことがわかりました。
別スレで以前私が質問した「オパール光学」も千早町2丁目でした。
ここは板橋の光学エリアより南であり、川越街道ではなく目白通りであり、東上線ではなく西武線沿線です。
今ではまったくの平和な住宅地です。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   ガラクマ - 2018/09/10(Mon) 22:35 No.11320

garakuma.gif 復帰しましたが、頭がおいついておりません。
すごい情報量です。ありがとうございます。

クーデターの話はガリガリ博士によりますと、内容、特に昭和30年というのはデタラメだ、とのこと。
たぶんアストロ・サービス・センターやアストロ光学の話からだと思いますが、他に情報お持ちかもしれませんので、このお話に入ってきてもらいたいところではあります。
星夜の逸品なんかを執筆されておりますがネットが見えないとのこと、お宅に出向いて、設定差し上げたいところです(Wifiルーターお持ちだったと思います)。

社長様から頂いたメール。以前、ご報告いたしましたっけ?
再度かもしれませんが、添付します。
*******************************************************************************************
現アストロ光学工業椛纒\の○○○○と申します。
昭和35年4月に入社した者です。
入社時にはアストロ光学鰍ゥらアストロ光学工業鰍フ新会社に生まれ変わっておりました。
私の先代の者がおりましたので○○様のメールを案内しておりましたが、どうも体調がすぐれず
ご返事をする状況でない事がわかりましたので、私の知り得る範囲でお答えさせて頂くことに致しました。

アストロ光学工業鰍フ設立は、昭和33年2月4日となっております。
従ってそれ以前のアストロ光学についてはよく知りません。
社長は会津出身の小松良基氏です。専務はヤシカ出身の滝沢盤氏、五藤光学から小森幸正氏が技術責任者、ペンタの流れの技術者もおられた様に記憶しています。
アストロも命名も当時のトンチ教室の石黒敬七、藤原○○の面々が「明日を取る」で縁起が良いと
云ったとか、云わないとか。野尻抱影先生も一役買ったとか、なかったとか...
何もかもおぼろげで申し訳ありません。
尚、1958年2月の設立場所は千代田区大手町の野村ビルに本社を置き、豊島区要町に工場(バタヤ部落脇)
がありました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

************************************************

それと、どなたか年表として整理して頂けませんか?
私も含め、みなさんも入ってきやすくなるかもしれません。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/10(Mon) 23:27 No.11321

ガラクマ様、エド様、みなさま、こんばんわ。

ペンタックス65mm屈折式赤道儀は中折式っぽいように思います。
カタログが無いので、ちょっと何ですが。

最近は、小島氏と旭光学との関係について、考えています。
旭光学を退社した後、アストロ光学(株)を設立しますが、後年の
「天文と気象」1974年1月号のテレスコメーカー探訪では、既に
アストロ光学工業(株)になっていますが、「天体望遠鏡の月算は
500〜600本で、販売は国内80%、海外20%とのこと、もっとも、この
比率は最近のもので、数年前までは、国内50%、海外50%と同じくら
いの比率であった。」と記されています。
アストロ光学(株)にしても、海外輸出のウェートが高かったと
思います。アストロ光学(株)の設立にあたっては、前のスレの
谷田貝氏の談として、「旭光学から二人」設立に関わっていると
ありました。1人は小島氏ということでしょうか。
アストロ光学(株)の販売ルートを考えると、国内は学校が主たる
納品先ですから学校に出入りする教材業者、学校予算も限られた枠
なので五藤光学との競合では、厳しいものがあったと思います。
「月刊教材教具」には、五藤光学は創刊当初より広告を載せてい
ましたが、アストロ光学(株)もアストロ光学工業(株)も広告は
載せていないです。(載せれなかったのでしょうか。)
アストロ光学(株)が広告を載せるようになったのは、日本天文学
会の「天文月報」で、それも、1957年です。
東亜天文学会の「天界」には、アストロ光学(株)は載っていなか
ったような載っていたような。
海外への輸出販路については、旭光学の販路を利用したりしなか
ったものでしょうか。

現アストロ光学工業椛纒\の○○○○様って、昔のカタログで
15センチ屈折赤道儀の脇に立っていらした方でしょうか。

先週は図書館に行かなかったので、新たな情報はありません。
今度、また行っていろいろと調べてみようと思っています。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/12(Wed) 22:48 No.11323

ガラクマさま 皆様 こんばんは!

年表を下記のようにつくってみました。
年表をつくるにあたって、もう一度登記簿をルーペで読み直しましたところ、面白い発見もありました。

 1951年(S26年)   五藤光学退職。アストロサービスセンター設立(個人会社)
*1952年(S27年)   旭光学工業株式会社 入社
 1954年(S29年)11月 アストロ光学株式会社 設立
              代表 小島修介氏 (他 取締役7名)
              豊島区千早町2丁目30番地
              資本金50万円 2千株
 1955年(S30年) 3月 新株発行により4千株へ増資
●1956年(S31年) 2月 豊島区要町3丁目30番地へ移転
             取締役2名退任 監査役 浅原栄二郎氏就任
 1957年(S32年) 5月 豊島区要町3丁目28番地へ移転
●1957年(S32年)11月 代表小島氏、代表浅原氏、取締役小林氏、滝沢氏、内藤氏、辞任
             小澤三男氏 取締役就任
●1958年(S33年) 2月 豊島区西巣鴨2丁目へ移転
             “アストロ光学工業株式会社”設立 会長小澤三男氏(要町3丁目28番地)
 1961年(S36年) 6月 豊島区要町3丁目28番地へ移転(戻り)
 同年        9月 清算人が浅原氏から藤本林平氏へ交代
●1962年(S37年)11月 大沢国男氏 代表
             取締役 藤田堅固氏 西徳治氏 
             「雑貨品の輸出入貿易業」を営業目的に加えて再開
             屋号は“アストロ光学”だが名称は“アストロサービスセンター”
 1966年(S41年)11月 豊島区池袋6丁目1915番地へ移転
 1971年(S46年)11月 渡辺昌五氏 代表就任
 1974年(S49年)12月 解散(アストロ光学工業へ吸収併合)

しかし、肝心な旭光学での活動期間、五藤光学へのクーデターが不明です。
青色つきこさま 特にアストロ光学工業内サービスセンターとなってからの部分を追加願います。

皆様、さらなる調査協力&ご意見ご指摘お願いいたします。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/12(Wed) 23:08 No.11324

なんかデコボコしてて見にくいですね、ヘタクソですみません。

面白い発見とは
@千早町から要町のバタヤ部落脇に引っ越したのではなく、バタヤ部落のはす向かいに一旦引っ越してから、新社屋へ引っ越しています。

A新生“アストロ光学工業”に追い出されるように一旦西巣鴨2丁目へ移転しますが、3年後にまた要町に戻ってきます。

*すごい偶然ですが、昭和37年頃、私はその西巣鴨2丁目に住んでいました。
 サンシャインの裏、つまり巣鴨プリズン裏という立地ですが、大塚駅から歩くとそれはわかりません。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/13(Thu) 23:50 No.11325

エド様、みなさま、こんばんわ。

エド様、年表に登記簿調査の結果が加わったことは、すごい進展です。
小沢三男氏の存在は、アストロ光学からアストロ光学工業へ繋がる大発見
ではないかと思います。

旭光学工業の在籍期間は、私の想像では、1952年〜54年です。
勝浦水路観測所の16cm屈折式赤道儀の製造・納品にも関わっていたと思います。

小島氏の天体望遠鏡メーカーの一員としての面を、エド様がまとめてくれまし
たので、私は小島氏の月面観測者として面から、ちょっとまとめてみようと思
います。(小島氏は自身で天体望遠鏡メーカーの一員であり、月面観測者であ
ると言っていますので)

1959.9設立 スイフト・インスツルメンツという双眼鏡の輸出商社がありました。
外国商社なのでスイフトつながりで、米国のスイフト社と関係があるのかなぁ、と
思いつつ、詳しい情報がないので、何ともいいがたいのですけど。
もしかして、日本テレスコープ、そして、高橋製作所に望遠鏡を発注したのは、こ
こかも。


アストロ光学工業(株) サービスセンターについては、雑誌広告からの推測
からなのですが、住所がアストロ光学と符合するんです。

私のまとめは、週明けです。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/13(Thu) 23:51 No.11326

皆様 こんばんは!
年表にアストロ光学の解散登記と小島氏の他界を忘れていましたので、修正版を下記に示します。

 1951年(S26年)   五藤光学退職。アストロサービスセンター設立(個人会社)
 1952年(S27年)   旭光学工業株式会社 入社(←未確忍?)
 1954年(S29年)11月 アストロ光学株式会社 設立
              代表 小島修介氏 (他 取締役7名)
              豊島区千早町2丁目30番地
              資本金50万円 2千株
 1955年(S30年) 3月 新株発行により4千株へ増資
 1956年(S31年) 2月 豊島区要町3丁目30番地へ移転
             取締役2名退任 監査役 浅原栄二郎氏就任
 1957年(S32年) 5月 豊島区要町3丁目28番地へ移転
 1957年(S32年)11月 代表小島氏、代表浅原氏、取締役小林氏、滝沢氏、内藤氏、左記全員辞任
             小澤三男氏 取締役就任
 1958年(S33年) 2月 豊島区西巣鴨2丁目へ移転
             “アストロ光学工業株式会社”設立 会長小澤三男氏(要町3丁目28番地)
 1959年(S34年)11月 アストロ光学解散(解散登記)但し“存続ス”との登記記録
 1960年(S35年)*月 小島氏他界
 1961年(S36年) 6月 豊島区要町3丁目28番地へ移転(戻り)
 同年        9月 清算人が浅原氏から藤本林平氏へ交代
 1962年(S37年)11月 大沢国男氏 代表
             取締役 藤田堅固氏 西徳治氏 
             「雑貨品の輸出入貿易業」を営業目的に加えて再開
             屋号は“アストロ光学”だが名称は“アストロサービスセンター”
 1966年(S41年)11月 豊島区池袋6丁目1915番地へ移転
 1971年(S46年)11月 渡辺昌五氏 代表就任
 1974年(S49年)12月 解散(アストロ光学工業へ吸収併合)

新生アストロ光学工業が誕生してから旧アストロ光学が解散登記するまで1年半もかかっています。
その間、新生アストロ光学工業は小島氏が築いたアストロ光学のすべてをちゃっかり受け継いだように見受けられます。
いや、受け継いだというより、むしろ小島氏ほか首脳陣を追出して乗っ取ったともとれます。
それでもアストロサービスセンターがまるで小島氏の分身のように残ったというのも興味深いです。
また、谷光学のように近所に起業して関係を続けたことから、喧嘩別れでもなかったと思います。
関係者の間に何があったのか、、、記録に残らない濃いドラマがあったと想像します。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/16(Sun) 16:07 No.11330

エド様、ガラクマ様、みなさま、こんにちわ。

追記@
第三のアストロ光学(株)については、エド様が適格に年表にまとめております。
私は第三のアストロ光学(株)=アストロサービスセンターと考えておりますが、
掲載広告からの推測です。なお、補強事項をひとつ記しておきますねぇ。

アストロ光学工業(株)の役員をみると

1958年初め   取締役会長 小沢三男  取締役社長 小松良基  専務 滝沢 磐
                       (【アストロ 光学(株))】スレ内の情報から)

1965年以前から 取締役会長 渡辺昌五  取締役社長 小松良基  取締役副社長 滝沢 磐
                       (「光学産業名鑑 1965年度版」より )

※渡辺昌五氏ですが、アストロ光学工業(株)取締役会長なんですが、
 この方が、1971年にアストロ光学(株)の代表取締役に就いています。
 このことからも、アストロ光学工業(株)と関係が強くあったと考えられます。  

※滝沢 磐氏ですが、後にアストロ光学工業(株)の取締役社長になります。

アストロ光学工業(株)の1965年の取引銀行は三和銀行でした。

追記A
スイフト・インスツルメンツ・インターナショナルS・A (東京支店)
設立 1959年9月9日
住所 東京都港区愛宕町2-101
社長 Robert W.Swift,Jr.
支店長 松田長廣
営業品目 顕微鏡、双眼鏡、望遠鏡、オペラグラス、天体望遠鏡、ライフルスコープ
     拡大鏡、外 各種光学機械、理科機械
                      (「光学産業名鑑 1965年度版」より )

※相互産業(株)内にありました。松田長廣氏は相互産業(株)の役員です。
 日本テレスコープ、高橋製作所が望遠鏡を納品しようとしたのは、ここでしょう。

追記B
アストロ光学(株)の広告が雑誌に掲載されるのは、「天文月報」では、1957年7月号
からです。それ以前は掲載がありません。1950年代は日本の天体望遠鏡は、輸出が
メインで米国のTower, Mayflower, JasonEmpire, Tasco, Edmund Scientific
Sears等に相手先ブランドで供給しています。(修正します)
推測ではアストロ光学(株)は、タスコのブランドで供給していたかと思います。
ロイヤルのブランド名は、アストロ光学工業(株)からではないでしょうか。
1955〜56年は、輸出が好調だったので、国内向けには供給が少なかったのではと、
考えます。1957年には輸出が芳しくなくなり、また取引先とのトラブル等思わぬことがあり、
国内向けにも力を入れようとしたが、資金繰りがつかなくなったのだと思います。
そのため、小島氏は責任を取り辞任、生産設備は新会社アストロ光学工業(株)に売却又は譲渡
しアストロ光学工業(株)は新体制でスタート。アストロ光学(株)は清算のため、当分の間存続。
アストロ光学工業(株)においても、取引先が国内に移行してきたことから、営業力の強化のた
め、アストロ光学(株)にアストロサービスセンターを運営させたのだと考えます。

とりあえず、アストロ光学(株)関連で書くことは書いたので、月面観測家としての小島氏に
スポットを当てて、後日書きます。
それから、今回、望遠鏡メーカーについても、いろいろ気が付いたことがありましたので、
「今年のお題」の方に、整理後に載せます。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/16(Sun) 20:24 No.11331

青色つきこさま 皆さま こんばんは!

青色つきこさま なんだか強要してしまったようで申し訳ありません。
これは困難な調査を根気良くしてくださったと想像いたします。
おかげさまで“アストロ光学”の後半部分が鮮明になりました。
輸出関連の業績浮沈と鍋底不況、取引トラブルなど重なり引責辞任との見解、流石です。
今後の投稿も楽しみにしております。

ガラクマさま このへんで「アストロ光学 その2」の締めとさせてください。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/17(Mon) 08:06 No.11332

エド様、みなさま、こんにちわ。

エド様、お気使い、ありがとうございます。
いろいろと興味深いことがでてくるので、わくわく楽しみながら、行っています。
後は、月面観測家としての小島氏について書き込みさせてもらい、私も筆を置きた
いと、思います。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/23(Sun) 13:42 No.11358

エド様、ガラクマ様、みなさま、こんにちわ。

アストロの書き残しが、まだあるので。もう少し、書いておきます。

----------------------------------------------------------------------------------
日吉光学(株)は埼玉県川口市にある光学機器の製造メーカーです。
ホームページに沿革があります。
http://hiyoshi-opt.com/company.html
沿革には、
1957年(S32年)2月 神奈川県日吉から東京都豊島区千早町に移転、社名を「日吉光学(株)」
とした と記されています。

---------------------------------------------------------------------------------

アストロ光学(株)は1954年(S29年)11月に豊島区千早町2丁目30番地で産声をあげました。
そして、1956年(S31年)2月に豊島区要町3丁目30番地に一旦、移転し、1957年(S32年)5月
に豊島区要町3丁目28番地に移転しました。(エド様作成の年表より)

日吉光学(株)が1957年(S32年)2月に移転した千早町の番地は、豊島区千早町2丁目30番地
でした。

日吉光学(株)
所在地   東京都豊島区千早町2丁目30番地
創立年月日 昭和25年(1950)12月5日
役員    社長  石川良徳
      工場長 西沢忠男
営業品目  双眼鏡、天体望遠鏡
                   (「光学産業名鑑1965年度版」p146)

・豊島区千早町2丁目30番地については(1)or(2)。(2)だったら面白いのですが。

(1)アストロ光学(株)が移転し、その後に日吉光学(株)に
1954年11月            1957年2月
アストロ光学(株) →  ?  → 日吉光学(株)  

(2)アストロ光学(株)から日吉光学(株)に
1954年11月      1957年2月
アストロ光学(株) → 日吉光学(株)  

・営業品目に天体望遠鏡があります。
 スイフトに納品してたHOCとは、やっぱり日吉光学(株)じゃないでしょうか。
 (ここはガラクマ様の範疇だと思っていますが、どうなんでしょうか。)

----------------------------------------------------------------------

堀口恵助氏が、いつ(株)堀口光学を立ち上げたのか気になっていました。

所在地   静岡県三島市谷田870
創立年月日 昭和33年(1958)5月30日
役員    代表取締役 堀口恵助
営業品目  望遠鏡、レンズ研磨その他
                   (「光学産業名鑑1965年度版」p146)

アストロ光学工業(株)設立の約3ケ月後ですねぇ。
アストロ光学(株)の取締役から外れても、アストロ光学(株)内には居たということ
でいいのでしょうか。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   ガラクマ - 2018/09/23(Sun) 16:25 No.11359

garakuma.gif 青色つきこさんとエドさんの調査で、だいぶん霧が晴れてきた感じがします。
ちょっとした産業界の発見?(知っていた人は知っていたのかもしれませんが)かもしれません。

スイフト・インスツルメンツ・インターナショナルS・A (東京支店)
特に、日吉光学については思い浮かびませんでした。

日吉光学は、ご推察の通りHOCマークを使っていて、海外のマニアサイトにもよく出てきます。
ただ、堀口光学もHOCマークを使っていた可能性があります。こちらは、私の手元の資料にはありません。
ここは、少し調べてみます。

私は、以前から山本製作所について、気になっております。
「ムーンウォッチャー」のスレでご紹介のS-5型とH-3型の望遠鏡のカタログページを添付します。
林商会というところから、販売されていたようです。
アストロ光学と高橋製作所を足したようなAE-80型や、H-5型似のAE-73型(アストロではR-73型として販売)とか気になっております。
http://yumarin7.sakura.ne.jp/retrokan/Yamamoto.pdf
http://yumarin7.sakura.ne.jp/retrokan/SYW_USAQ1.pdf

[管理者修正]





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   エド - 2018/09/23(Sun) 21:53 No.11362

青色つきこさま ガラクマさま 皆様 こんばんは!

またまたナイスな発見、恐れ入ります。。。

実は“第三のアストロ光学”の初代社長は横浜市北区の大沢国男氏であることはご紹介したとおりですが、
その時、なぜ横浜?と思っていました。
急に横浜の人がそれも社長として登場したので、不思議に思っていたんです。
そして、大沢氏の住所である北区(現港北区)新吉田町と日吉とはなんと隣町じゃないですか!
たぶんですが、大沢国男氏と日吉光学の石川良徳氏は何らかの知り合いだったんじゃないかと思います。

*昭和56年の(財)日本望遠鏡検査技術協会の双眼鏡製造者名簿(ガラクマ氏所有)によると、
 日吉光学(株)はやはり千早町2−30でJ-B56で社長は西澤忠男氏となっています。
*千早町2−30は旧番地ですが、幸い現在の番地と同じ場所です。
 ただ、現在の番地は2丁目30番地の後に**号が付いています。
*もうひとつ発見!
 千早町2−9に双眼鏡メーカーの「八鉱精機」があります!(現在は不明)
 千早町2−30と2−9は隣です!
 やはり千早町2丁目グループは存在したと思います。
*日吉光学さんのマークは現在のホームページでも同じ(プリズムに?が立っている)ですね。
 気になるのは“OCEAN”の意味です。
 日吉といえば、駅前の海軍の赤レンガ事務所(後の慶応大学日吉校舎)が有名ですが、昔は日吉の丘から横浜の海が見えたかもです。





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   - 2018/09/24(Mon) 19:20 No.11366

日吉光学の現在の社長さんは20年前に西澤徹氏が就任されていますが、創立者と同じ苗字ですので、ご親族の可能性が。何かご存知かも?

http://hiyoshi-opt.com/company.html




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/09/24(Mon) 21:22 No.11367

原 様、みなさま、こんばんわ。

ご指摘のとおりで、聞いてみるのも「有り」ですかねぇ。
日吉光学は神奈川にあった会社と、別の会社が一つになり、豊島区千早で誕生していますが、
別の会社というのが、元々、千早のその地にあったのか、どうかが知りたいところです。




Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   ガラクマ - 2018/09/24(Mon) 22:23 No.11369

garakuma.gif  日吉光学さんは、cloudynightsでちょっとHiyoshiで検索してもすごい量出てくる、アメリカ(含む英語圏)のマニアでは、凄い人気です。
ただ、物を見ても分かりません。
例えば、MONOLUXというブランドですが、確かに初期のアストロとは似てますが、あちこちのブランドで出ています。
HOCとAPLは同じように語られてはおります。

なんの役にも立ててはおりません。





Re: 【アストロ光学梶@その2】 小島修輔氏   青色つきこ - 2018/10/12(Fri) 00:22 No.11389

みなさま、こんばんわ。
今年のお題に載せようか、迷いましたが、こちらに載せます。

関西光学のシュミット望遠鏡(「アストロ光学(株)その1」のカンコーの広告にある)と
No.11356のアストロ光学(株)のH5の赤道儀に似ている有限会社一壽商会の望遠鏡です。



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