【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー 投稿者:
ガラクマ 投稿日:2020/05/01(Fri) 19:56 No.12300
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
エド - 2020/05/01(Fri) 22:03 No.12302
ガラクマさま 皆様 ついに旭光学時代の遺稿が出てきて、驚きました。 その絵なんですが、当時の機械図面同様、原版はトレーシングペーパーに鉛筆で書かれたと思います。 それを“青焼き”したものですので、サイズは原版と同じです。 鉛筆で書くので、どうしても手の下側が黒くなり、原版の下端が黒く汚れます。 4回も折りたたんでいるので、サイズはA1ではないかと思います。 右端下のサインと日付も、絵と同じ青焼きなので、原版を書いた人物(修介氏)と日付となります。 わざと独特に変形したサインに見えますが、同姓の設計者がいるような大会社の設計部では 皆がよくやったことです。 この絵はもちろん図面ではなく、構想図といったところでしょう。 スケールの代わりに、人物を置いているところが、修介氏の絵心ですね。 (後にアストロ光学のカタログにもこういう構図の写真が出てくるというのが興味深いです) 水路部なり公共施設などに提出する見積書に添付したのかもしれません。 それにしても、赤道儀メカ部はかなり詳細に書き込んであり、 この時点で既に設計がされていた証拠です。 面白いのは、カックン防止のツッパリ機構がこの青焼きに後から書き込まれていることです。 (その部分だけ黒ペンで加筆されています) この追加部分は、修介氏によるものか、水路部の技術者によるものかはわかりませんが。 前スレの水路部の16センチに間違いないですね。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
じゃんく王 - 2020/05/02(Sat) 00:02 No.12303
皆さまこんばんは。 青焼きのサイズですが、人物の下に1/4とありますね。 当時の成人の身長が160Cmとすれば実寸40Cmほどで 紙の縦幅が80Cmほど、A0の短幅841mmと合致します。 A0サイズなんじゃないでしょうか。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
エド - 2020/05/02(Sat) 00:36 No.12304
ジャンク王さま 皆様 そうですね、確かに1/4とスケールがあるのを見落としていました。 4回折りたたんでA5というのもちょっと畳みすぎだなと思っていたのですが、 A0ならば4回折ってA4となり、納得できます。 それにしても大きなドラフターを使っていたんですね。。。 それからまた気が付いたのですが、日付の年号を1953から1952に書き換えられているような気がします。 どちらが正解としても、年表からは微妙なところです。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/05/02(Sat) 08:12 No.12305
みなさま、こんにちわ。 ガラクマさま、とてもすご〜い資料を入手されましたねぇ。 すごいです。 小島氏の署名は、アストロ光学(株)の望遠鏡のイラストにもあります。 アストロ光学(株)のS4型経緯台のサインの方が簡略です。 六吋屈赤のイラストを並べてみました。 1952-12-1の書き込みですが、(もう少し考えてみますが、) 旭光学工業(株)への入社時期を推察する資料の1つになります。 それにしても、旭光学工業(株)時代の資料も充実してきました。 やっぱり、資料不足は、日本テレスコープ工業(株)時代でしょうか。
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ガラクマ - 2020/06/06(Sat) 23:21 No.12330
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/06/07(Sun) 08:03 No.12331
ガラクマ様、みなさま、こんにちわ。 ガラクマ様、手持ちのマクロ光学の広告には人工衛星観測用望遠鏡としか記されておりませんでしたが 明らかにMT-4です。 こちらは、国内にあるのでしょうか。 旭光学工業(株)の六吋屈折赤道儀のイラストといい、小島氏関係が続々と出てきますねぇ。 わくわくします。
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原 - 2020/06/07(Sun) 19:34 No.12332
このMT-4のフォークを見ていて気になったのですが、CharlieBさんの「異常なマウント」のフォークと同じ金物ではないか?鏡筒の固定クランプも含めて。塗装は違いますが、長さや形状がそっくりです。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
ガラクマ - 2020/06/07(Sun) 22:33 No.12333
青色つきこさん 国内であったようです。 ちなみに、アストロ光学のパンフのものと足の形が違います。 原さん 確かに、同じメーカー製かも。ただ、MT-4の鏡筒径は小さいので、全く同じ金物ではないかもしれません。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
NGC1999 - 2020/06/09(Tue) 19:47 No.12334
みなさんこんばんは カタログを見ると、MT-4鏡筒の固定クランプは、2個なんですね。 アストロ光学の5cm簡易赤道儀(T-8型)のは、1個です。 画像の鏡筒バンドの左側の四角い部品は、バンドの溝の部分に入るスペーサーです。 MT-4は人口衛星観測用ということで、気合が入った作りのようですね。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/07/06(Mon) 00:30 No.12376
みなさま、こんばんわ。 小島修介氏による自身の経歴紹介といっても過言ではないと思いますが。 「産経日本紳士年鑑」に経歴記事を見つけましたので、別添にまとめてみました。 第1版が1958年出版なので、内容は1957年に募ったものでしょうから、小島氏 の現職はアストロ光学(株)代表取締役で、妥当な内容です。 第2版は1960年出版で、内容は1959年に募ったものでしょうから、現職は日本テレス コープ(株)代表取締役で、そのことは妥当ですが、最初から日本テレスコープ(株) になっており、アストロ光学(株)の経歴が意図的に改変されています。 紳士録に載ることは、一種の社会的な成功事例の証だったでしょうし、載せる事項に ついても、厳しく審査されるわけでもなかったでしょう。 でも、見比べると、改変したことがわかってしまいますが。 これまで調べてきたことから、意図的な改変があることがわかります。 天象普及協会のこと、旭光学工業に入社した時期、アストロ光学(株)のこと、マク ロ光学工業(株)のこと。 但し、意図的な改変があるのですが、新しい情報もあり、自身による経歴紹介という 面では、有用と思われます。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
エド - 2020/07/06(Mon) 22:44 No.12377
青色つきこ様 ガラクマ様 皆様 「紳士録」とは懐かしいですね〜 昔、図書館にあったのを見たときは、変な本だな〜と思ったものです。 修介氏はふたつの夢を持っていたと思います。 ひとつは天文の普及。 修介氏自身、子供の頃に月や星に興味をもったように、 ようやく平和になって再度子供たちに天文を普及したいという夢。 もうひとつは光学メーカーを興してビジネスに成功するという夢。 紳士録は“成功した人限定”ですので、アストロ光学での放漫経営による失敗という負い目は 本人の意識に重くあったでしょうし、 なかば同一会社である“アストロ光学工業”が存続しているので、それを書くことをためらったと考えられます。 また、修介氏がアストロ光学を去るにあたって、いくばくかの遺恨が残ったのでは、という邪推もできます。 あかげさまでマクロ光学についてはおぼろげながら修介氏の足跡を確認できましたので、 私も再度、“日本テレスコープ”について情報を探してみます。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/07/13(Mon) 21:22 No.12382
みなさま、こんばんわ。 表を作ってみると、小島修介氏と東和光器の山本栄氏とは同世代だったのがわかります。 山本栄氏と東和光器についても、調べておくべきところとは思っていますが、なかなか手が回りません。 アストロ光学(株)の倒産、アストロ光学工業(株)の労働争議に絡んでのキーマンは、計理士・税理士であった小沢三男氏だった と思います。 1957年11月に千葉勝雄氏がアストロ光学(株)の代表取締役社長になると、すぐにアストロ光学(株)の取締役に選任されています。 豊島区の方なので、アストロ光学(株)とは既に付き合いがあったのかもしれません。 また、アストロ光学工業(株)のこの3人に共通するのは福島県です。 大株主は小松良基氏ですが、この方の経歴を考えると、なぜ、光学機器メーカーなのか、不思議でなりません。 だれが、アストロ光学の第二会社を計画したのかは、もはや知るすべもありませんが、中心にいたのは小沢三男氏だったと思います。 1958年2月にアストロ光学(株)は事実上倒産し、小島修介氏は1958年3月に高橋渉氏等とマクロ光学工業(株)を設立します。 高橋渉氏の経歴にはマクロ光学工業(株)はありません。小島修介氏と高橋渉氏がどういう繋がりあったのかも不明です。 もしかしたら、陸軍兵器学校で知り合った?。いずれにせよ、社長としては、名前だけ貸したのかもしれません。 この方たちの経歴については、産経日本紳士年鑑を利用しました。 載せるのが、ステータスだったと思います。 いわゆる紳士録は、経歴を調べるには大変重宝することが、今更ですがわかりました。 日本テレスコープとのつながりもあつたかもしれない東邦光学ですが。 勝間光学機械と隣接していたとは、思ってもいませんでした。 方や双眼鏡の鏡胴を作っており、方や組み立てをしていた、お隣さんだったとは。 でも、今は、どちらも、ありません。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/07/25(Sat) 16:53 No.12395
みなさま、こんにちわ。 ガラクマ様、エド様、こんにちわ。 アストロ光学(株)の協力工場についてです。 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- C星の手帳 1980冬 高橋喜一郎氏 当社がTS式のブランド名で、天体望遠鏡を送り出したのは、昭和42年10月のことで、65o屈折赤道儀が初陣を切って市販された。 その屈赤の設計者は、当時著名なアマチュア天文家であった故小島修介氏で、同氏が設立し、社長でもあった、日本テレスコープ社で製造され、 米国のスイフト社に輸出されていた。 当社は、そのころ鋳造業者として日本テレスコープ社より受注していた。 昭和30年初めのことで、20年以上前のことである。 そのころは現在のような宇宙ブームはなく、天文ファンの数も少なく、私は小島氏から、作った望遠鏡が売れないので、 氏自身が担ぎ売りに小売店回りをした苦労話を聞かされた。 話にははるかに遠大な計画もあったが、惜しくも小島氏が急逝し、会社はストップしてしまった。 そこで弊社が、望遠鏡の発注先であったスイフト社の依頼をうけ、残っている半製品を整理し、完成品にした。 それが望遠鏡業界に踏み込む発端になろうとは夢想もしなかった。・・・・・・・・ (【アストロ光学梶z アストロ光学工業に非ず ガラクマ - 2017/06/29(Thu) 21:47 No.10672より ) ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 「星の手帳」に掲載された高橋喜一郎のこの手記は、度々、紹介され続けております。 要するに 「小島修介氏の会社から鋳造業者として受注を受けていた。」 ということが記載されています。 最も注意すべきことは、 「故小島修介氏で、同氏が設立し、社長でもあった、日本テレスコープ社で製造され、米国のスイフト社に輸出されていた。 当社は、そのころ鋳造業者として日本テレスコープ社より受注していた。 昭和30年初めのことで、20年以上前のことである。」 という文章には、多くのことが凝縮されている反面、多くのことが削られていると思っています。 高橋喜一郎氏の、「昭和30年初め」という記載からは、アストロ光学(株)(1954.11〜1958.2)との取引関係も暗示されてい るようにも思えていました。 しかし、日本テレスコープ社(1959年夏頃〜1960.5?)だけの関係で読めば、昭和30年代初めと考えないとつじつまが合いません。 (厳密に考えると。) それでも、なぜなのか、ずっと疑問に思い続けてきました。 本来、 「故小島修介氏で、同氏が設立し、社長でもあった、日本テレスコープ社で製造され、米国のスイフト社に輸出されていた。 当社は、そのころは(1959年)、鋳造業者として日本テレスコープ社より受注していた。 故小島修介氏とは、昭和30年初めにアストロ光学(株)が設立された時から、既に取引があったが、もう20年以上前のこと である。」 となるべきだと思います。 高橋喜一郎氏が、なぜ、アストロ光学(株)からの取引に触れずに、日本テレスコープ社を出してきたのか。 第一義的には1959年には、日本テレスコープ社と取引していたことによるのかもしれませんが。 小島修介氏自身が経歴からアストロ光学(株)を消したことで(記事No.12376参照)、高橋喜一郎氏も小島修介氏の意向を尊重し て、敢えてアストロ光学(株)には触れずに書いたのかもしれません。 もっとも、高橋喜一郎氏は、そこまで考えてはいなかったかも知れません。 「神のみぞ知る」です。 ところで、高橋喜一郎の経歴については、「産経日本紳士年鑑 第12版」1975に記載されています。 それには、「昭和31年天体望遠鏡の製作輸出、昭和42年国内通信販売開始」と記されています。 高橋喜一郎の「星の手帳」の手記に加え、「産経日本紳士年鑑 第12版」の経歴紹介から、 「高橋製作所がアストロ光学(株)の協力工場として、昭和30年乃至は昭和31年から天体望遠鏡の部品(鋳造製品)を製造していた」 ことがより明らかになったと思います。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
エド - 2020/07/25(Sat) 22:57 No.12396
青色つきこ様 ガラクマ様 皆様 元々鉄鋳物屋さんだった高橋喜一郎氏からのアプローチ、流石です。 喜一郎氏が存命中なら、かなりの情報が得られたと思いますが、残念です。 光学産業の業界は狭く、人的な繋がりが強かったと思いますので、鋳物部品の下請けである喜一郎氏としては 新アストロ光学工業の手前、アストロ光学との関係を明言することに遠慮があったのではないかと思います。 修介氏との繋がりはアストロ光学時代からあったと考えるのが自然と思います。 さて、私のほうはというと、先日、練馬法務局へ再アタックしてみたのですが、 前回同様、登記簿は出てこず、手書きの別資料に一行だけ会社名があっただけです。 日本テレスコープなのか、日本テレスコープ工業なのかというと、正式には“工業”が付いていました。 その足で練馬区の工業資料を調べに練馬(中央)図書館へ行き、事情を話して調べてもらったのですが、 残念ながら会社概要的な情報は得られませんでした。 司書の方5人くらい総出でいろいろ調べていただき、唯一、S33年当時の住宅地図から 会社があった練馬区下石神井2−1879(旧番地)を見つけてくれました。 それを見ると、1879番地には“小川”という、かなり大きな家があったことがわかります。 この小川氏と修介氏が関係あるのか、無関係なのかは全くわかりません。 この場所は、西武池袋線の石神井公園駅からほど近いところで、 アストロ光学工業のある東長崎とは7駅下ったところになります。 やはり千早町の光学グループ(主に日吉光学か)との関係を重視してのでしょう。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/08/27(Thu) 22:12 No.12434
みなさま、こんばんわ。 五藤斉三氏は、1933年に世田谷区弦巻に新工場を建て、四吋屈折赤道儀を設置した天文台も併設されていました。 そして、1938年2月に五藤光学研究所を株式会社に改組しています。 小島氏が五藤光学に在職していた期間は、(1938年のいつ頃に召集されたのかは定かではありませんが、)ちょうど個人会社としての五藤光学研究所の弦巻時代と重なっています。 小島修介氏が五藤光学研究所に在職した1933年(昭和8年))から1938年(昭和13年)までの期間についての足跡で、 はっきり確認できることの一つが、1936年6月19日の北海道皆既日食に五藤光学研究所朝日新聞聯合日食観測隊に参加していることです。 「科学知識」1936年8月号の北海道での皆既日食(1936年6月19日)の観測報告の中に次のように記されています。 「五米コロナグラフは村上忠敬理学士、斎藤守、小島修介三氏の協力に依り」 (五藤斉三、「北海道興部皆既食観測に於ける眼脂観測と撮影装置」『科学知識』1936年8月号) 小島氏が北海道出身ということもあったのかもしれませんが、器械の操作に長けていたこともあって五藤氏がメンバーに入れたと思われます。 なお、弦巻の五藤光学研究所については、五藤斉三「天文夜話」中の建物のイラストの他に、「天体望遠鏡の出来るまで 五藤光学研究所見学」『科学知識』1938年9月号の写真が参考になります。工場内部と併設された天文台の四吋屈折赤道儀が掲載されています。残念ながら、小島氏の姿は見えない。既に召集されたのか。 小島氏は、ここで長らく住み込みして働いていました。 ここの四吋屈折赤道儀で月面スケッチ等を取ったと思われます。 小島氏が、本格的に月面観測に取り組むのは、戦後のことです。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/10/24(Sat) 20:14 No.12510
みなさま、こんにちわ。 小島修介氏の望遠鏡製作者としての経歴については次の七つに区分できます。(修正ver.2) 「子供の科学」1959年2月号には、マクロ光学工業(株)天体部長の肩書きで月についての記事が あります。それも含めて、ちょっと修正します。 @ 1933年〜 五藤光学研究所 【弦巻時代】 A 1945年〜 五藤光学研究所 【新町時代】 B 1951年3月〜 天象普及協会・アストロサービスセンター 【個人】 C 1952年12月〜 旭光学工業(株) 【大山工場 天体部長】 D 1954年11月〜 アストロ光学(株) 【設立 代表取締役→取締役】 E 1958年3月〜 マクロ光学工業(株) 【設立 技術担当の取締役、天体部長】 F 1959年5月?〜 日本テレスコープ工業(株) 【設立 代表取締役】 私の記事No.12508, そして、エドさまの記事No.12509への続きで、 第三のアストロ光学(株)誕生についての資料としては、「昭和38年(ワ)第1369号」があります。 雑誌「ジュリスト」に掲載されているのが、残念ながら全文なのか不明ですが。 【内容】 1962年11月のアストロ光学(株)の株主総会での議題が事前通知では「会社を元に戻して再開させる」 ということだけだったのに、取締役の選任に加え監査役まで選任したことへの、一部の株主からの訴訟、 その判決への講釈です。 訴えたのは、浅原栄二郎ほか2名の株主 (浅原栄二郎は、アストロ光学(株)の取締役、一時期は小島修介とともに 代表取締役、1959年11月の株主総会で会社の解散が決まった後には清算人) 訴えられたのは、(新生)アストロ光学(株)です。 判決は、一部棄却。 できれば、全文を読みたいが。 ネットにはないし、国会図書館にもない? 最高裁判所図書室にはあります。 地方公共図書館の一部には判例集が所蔵されていますので、なんとかできないか思案中です。 全文を読めれば、もっと解明できると考えています。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
ガラクマ - 2020/10/26(Mon) 23:16 No.12511
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/12/08(Tue) 22:09 No.12541
みなさま、こんばんわ。 小島修介氏については、ご自身が言っているように望遠鏡メーカーの1人であり、月面研究者の1人です。 書誌的には、月面関係は、本スレではあまり書いていないので、まだ余力がありますが。 望遠鏡関係は、コロナ禍の現状では出歩くのもままならず、これ以上の進展は、あまり望めません。 今までの調査を通じて、天体望遠鏡をはじめとして、そのアクセサリーについては、その構造が現在とは相違する点も多々あることに 驚きました。 1955年〜57年で天体望遠鏡を製作していたのは、屈折式ではアストロ光学(株)、五藤光学研究所、日本精光研究所、日本光学、 旭光学でしょうか。(他にもありますが) その他にも、地上用望遠鏡を製作していたところは多くありました。 まずは、アストロ光学(株)メインなので、その時期の各社の天体望遠鏡を実地で比較してみたいところです。 基準は、五藤光学研究所としたいところです。 五藤光学研究所の製品については児玉様が、アストロ光学(株)のT-8型についてはNGC1999様、R-3型についてはエド様が、全般的にはガラクマ様が述べられており、とても参考になります。 ただ、アストロ光学(株)のS-5型(1955〜1957:1958も含めてもいいかな)については、実物の紹介はありましたでしょうか。 小島修介氏がかかわった小天体望遠鏡は、五藤光学研究所の単軸赤道儀、アストロ光学(株)のT-8型、S-5型、H-5型、 スイフトの831、838、839があります。国内においては、アストロ光学工業(株)がS-5型を引き続き販売したこともあり、 現在もヤフオク等に出てきます。もっとも、それはアストロ光学工業(株)のS-5型です。(ファインダーが接眼部に有るもの) 極論ですが、「アストロ光学工業(株)のS-5型は、アストロ光学(株)のS-5型にあらず」です。 最も小島修介氏の天体望遠鏡設計思想がこもった、S-5型はどなたか所有されていましたでしょうか。 アストロ光学(株)は輸出用望遠鏡メーカーだったので、製品の多くが国外に出され、国内に残っているものは、極わずかだったでしょうし、現在までに残っているのは、更に少ないと思われます。 輸出されたS-5及びS-6型(アクセサリーの違いのみ)は、アクロン(かって存在したアメリカの百貨店、スペーススコープブランド)、 タスコ等で販売されました。アストロ光学(株)の製品は相手先ブランドで出されており、単にメイドインジャパンです。 輸出されたものに、アストロ光学(株)のトレードマークが付されたのは、逆に珍しいのではないでしょうか。 なお、アストロ光学工業(株)ではロイヤルブランド等のトレードマークを積極的に付け始めたと思います。 この辺は、大株主で、後に社長になった小松良基氏の差配でしょうか。(初代社長は渡辺昌五氏、後に会長) 小松良基氏は、アストロ光学工業(株)設立時(1958年2月)には、NET取締役(現在のテレビ朝日)、外国映画(株)代表取締役でした。 戦前は、アメリカにおられました。外国映画(株)は大手町野村ビルにあり、アストロ光学工業(株)は、ここに本社を置いていました。 最近、思うのは 小島修介氏の天体望遠鏡設計思想を追うには、極論、アストロ光学(株)のS-5型を実際に調査しなければ、わかりません。 (ただ国内に現存 ?......。) ということです。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
ガラクマ - 2020/12/13(Sun) 20:27 No.12547
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
CharlieB - 2020/12/13(Sun) 22:35 No.12548
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/12/15(Tue) 00:01 No.12549
ガラクマ様、こんばんわ。 CharlieB様、こんにちわ。 ファインダーの件ですが、1957年のS-5の広告では三点調整になっています。 広告のものは、量産されたものと違うのかもしれませんねぇ。 CharlieB様のS-5は、銘板に千早町と刻印されています。 S-5が発売されたのは、1955年7月頃です。 アストロ光学が、要町に移転したのは1955年8月頃と考えられます。 まだ、千早町の工場も稼働していたのかもしれません。 しかし、それらを考え合わても、CharlieB様のS-5は、最初に製造されたS-5 ではないでしょうか。 登記簿上は、 アストロ光学が豊島区千早町にあったのは、 1954年11月26日から1956年2月27日までです。 1956年2月28日には豊島区要町三丁目30番地に移転となっています。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
原 - 2020/12/15(Tue) 21:33 No.12550
カタログが不鮮明で良くわからないのですが、ファインダーの修正部分、ひょっとしたら写真製版で切り抜いたりつないだりした時に間違って一部消してしまったのではないか?よく「切り抜き」を間違えて妙な背景が写ったままや、つながるべき所が分離してしまったカタログや、広告があります。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
CharlieB - 2020/12/27(Sun) 07:12 No.12551
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/12/27(Sun) 18:59 No.12552
みなさま、こんばんわ。 CharlieBさま、貴重な情報を載せていただき、ありがとうございます。 単眼屈折望遠鏡は日本では輸出品取締法第4条に指定されていました。 最低でも日本工業規格JISB7123に合格しないと輸出できません。 標示等級は、EXPORT STANDARDです。 製造業者が社内検査で合格したものに貼付します。 このラベルは、1957年9月12日にアストロ光学(株)が実施した社内検査で 合格したことを示しています。 TASCO 60mm Telescopeについては、私は実物を見たいと願っておりました。 幸い、TASCO No.22289を購入することができました。 CharlieBさまのTASCO No.22249とNo.22318との間の番号です。 しかし、私のTASCOは、USAから、まだ届いていません。 私のTASCOの対物レンズのシリアル番号はNo.41963です。 CharlieBさまのTASCO No.22249,No.22318,ASTRO S5 の対物レンズのシリアル番号 を教えてもらえませんか。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
CharlieB - 2020/12/27(Sun) 22:30 No.12553
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/12/28(Mon) 07:06 No.12554
みなさま、こんにちわ。 CharlieBさま、ありがとうございます。 引き続き、調べてみたいと思います。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2020/12/31(Thu) 23:07 No.12558
みなさま、こんにちわ。 2020年、最後の更新です。 アストロ光学(株)は、1954年11月に設立され、翌年の1955年から輸出を開始しました。 アストロ光学(株)の設立メンバーには、小島修介氏の他に、堀口恵助氏(アストロ光学(株)倒産後、堀口光学を設立)、 谷田貝幸雄氏(アストロ光学(株)倒産後、谷光学を設立)がいます。 アストロ光学(株)は18社の専門工場との連合体であり、自社では製品の企画・開発及びレンズ関係、製品の総合検査を行っていました。 (アストロ光学(株)広告、月刊教材教具1955年2月号) なお、製品の企画・開発は小島修介氏、レンズ関連は堀口恵助氏の担当だったと考えても良いと思います。 小島修介が新たに考案したS型赤道儀兼経緯台(赤経台)には、60mm鏡筒、76.2mm鏡筒が載せられました。 @ 60mm屈折鏡筒 (D=60mm f=910mm)が載ったS5型 A 76.2mm屈折鏡筒 (D=76.2mm f=910mm)が載ったH2型 アストロ光学(株)の製品は、最先端のアイデアが詰め込まれたものだったと考えます。 アストロ光学(株)は、日本国内での学校向けには学校教材業者や理科器械店を通して販売しました。 アストロ光学(株)は、輸出用光学器械のメーカーであり、学校向け以外では取引先のブランド名で製品を供給していました。 S5型は、Akronでは151 Power Space Scopeとして、TascoではTasco 60mmとして供給されています。 小島修介氏が、どのような経緯でアストロ光学(株)を設立したのかは、推測するしかありません。 小島修介氏が輸出ルートをどのようにして見つけたのかは、とても答えを見つけるのは難しいでしょう。 小島修介氏とAkron,Tascoとの間に介在する商社もしくは人物が誰なのか。 小島修介氏とSwiftとの間には、相互産業(AMA)があります。 相互産業とAkron,Tascoが関係があったのかは不明です。 今回、Popular Science 1956年2月号にAkron 151 Power Space Scope を見つけました。 既にCNでCharlieB様がPopular Mechanics 1956年5月号を紹介していますが、更に3月前までに遡れます。 遅くとも、1955年末にはアストロ光学(株)とAkronとの間に供給ルートが出来ていたと考えます。 基本的には、小島修介氏のアストロ光学(株)を考察の対象としています。 小島修介氏のアストロ光学(株)は、1958年2月に、事実上、倒産します。 前年の1957年11月に代表取締役から退き、1958年2月には取締役も退任します。 小島修介氏が、その後もアストロ光学(株)が清算、解散(1959.11株主総会決議)に至るまで関係を持ち続けたのかは不明です。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
エド - 2021/01/01(Fri) 00:37 No.12559
青色つきこ様 ガラクマ様 皆様 あけましておめでとうございます! 今年もアストロ光学と修介氏の研究を宜しくお願いいたします。 2020年の統括的投稿、ありがとうございます。 そのAKRONの宣伝内容を読むと、なにやら昨今の日本と隣国の関係を想起してしまい、 “歴史は繰り返す”としみじみ思ってしまいました。 アメリカ人が、日本の光学技術は元を正せばドイツの光学技術だから優秀なんだと、 大っぴらに謳っているのが面白いです。 私個人的には、大企業と中小企業の両方を技術屋+αとして勤めた経験から、 今までのアストロ光学&修介氏の情報と、時代背景、地勢的な繋がり、復員兵の戦後、修介氏の性向などなどをもとに 漠然としながらもかなり明瞭なイメージを持っています。 思うに修介氏は、アストロ光学という会社を興さずに、例えはなんですが、ダウエルのような個人会社でやっていれば かなり違った結果になったのではないかな、と思っています。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2021/01/01(Fri) 12:15 No.12560
みなさま、 ガラクマ様、エド様 2021年も、よろしくおねがいします。 Cloudy Nightsに千葉製作所の製品がアップされました。私的には、大ニュースです。https://www.cloudynights.com/topic/747636-got-a-new-royal-astro-sans-streiffe-astigmatism/#entry10771451 これは、非常に興味深いものです。 千葉製作所は、アストロ光学(株)の専門工場の一つですから、アストロ光学(株)のH2です。 基本的に、アストロ光学(株)のH2(D=76.2mm f=910mm)の延長線上にあります。 なお、千葉製作所については、No.11909に書いておきました。 千葉製作所については、元々は双眼鏡関係のメーカーでした。 代表取締役の千葉勝雄氏は、アストロ光学(株)の創設時からの役員です。 1957年11月にアストロ光学(株)の代表取締役に就任し、1958年2月にアストロ光学(株)が事実上倒産した後も アストロ光学(株)の再建に努めていました。 アストロ光学(株)時代の千葉製作所は、自社ブランドで主に顕微鏡の製造を行っていたと思われます。 小島修介氏が考案した立体顕微鏡を製造していました。 輸出検査調査会の望遠鏡・顕微鏡製造業者表(1956)にもアストロ光学(株)、五藤光学研究所とともに掲載されています。 なお、日本精光研究所は顕微鏡製造業者として掲載されています。 今回の76.2mm屈折赤道儀は、1958年2月にアストロ光学(株)が倒産した後に、千葉製作所が製作した製品と考えます。 製造時のオリジナルのままだとすれば、1958年6月〜1959年頃の製造と考えます。 赤道儀は、アストロ光学工業(株)の製品に似ているように思います。 アストロ光学(株)は、1958年2月に要町の工場を閉鎖し、工員を解雇したので、、労働争議が激化しました。 要町の工場は、アストロ光学工業(株)に貸借されました。 その時点では、アストロ光学(株)とアストロ光学工業(株)とは、基本的には経営理念が違います。 経営陣は、アストロ光学(株)と重複している役員もいますが。 アストロ光学(株)は、一時、本社所在地を西巣鴨に移しますが、同年6月には要町に戻ってきます。 千葉製作所については、1959年に会社組織を有限会社から株式会社にしたことしか記録がありません。 千葉勝雄氏も、その後、どうなったのかは、わかりません。 1958年は、アストロ光学(株)を頂点とした企業連合が瓦解し、望遠鏡メーカーが乱立した時期と考えています。 1958年の日本の望遠鏡メーカーの状況を考える上で、貴重な資料です。 No.12559でエド様が、小島修介氏について個人会社でやっていればと、おっしゃっていますが。 ご存知のように、1951年始め頃に五藤光学を退社し、天象普及協会を起こして天文の普及活動をしたり、アストロサービスセンターとして望遠鏡の修理や設計をしていました。 そのまま、コンサルティングとしてやって行くという選択肢もあったと思います。 1951年〜52年は、月面観測家としても活躍しています。 不思議なのは、自身では望遠鏡を持っていなかったことです。
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
田間 - 2021/01/10(Sun) 15:41 No.12571
ガラクマ様、青色つきこさま、エドさま、そして常連の皆様、こんにちは 田間でございます。 アストロ光学、小島修介氏にかかわるこちらのスレ、大変興味深く、楽しく拝見させていただいています。 さて、先の青色つきこ様の投稿でアストロ光学(株)のS-5型を実際に調査さすべく、本体を入手されたとのことレビューを 楽しみにしています。 CharlieB様の初期のS-5の投稿写真を見てきずいたのですが、赤道儀本体、鏡筒等わたくしの手持ちのミザールアポロ型と 非常によく似ています。 アストロ光学(株)S-5との相違は、対物レンズの焦点距離(1000mm)、目盛環、塗色(グレー艶艶)、フレキシブルハンドル、各ノブ類、三角版問等くらいでその他全体的によく似ています。 古スコ広場掲示板では、10数年前に私のアポロ型、数年前にはシグナルR様がアポロ型、スバル型を紹介しています。 今回、小島修介氏のレガシー、ということで再度レビューしてみたいと思います。
アストロ(株)S-5と見比べやすいようにCharlieB様の投稿画像と同じ配列にしました。 最初の画像はアポロ全体です。ファインダーは、わたくしのアポロ型はH-100が発売されてからのもので、ファインダー、ピントノブ類、目盛環、三角版等が初期のアポロ型と違います。、シグナスR様の個体が初期のものと思われますので参照してみてください。 手持ちの6倍ファインダー付きの画像も添付しておきます。 接眼部は、どうもエース型と同じシールが貼ってあるみたいです。 シグナスR様の個体はきちんとした金属製の銘板に製造番号が打ってあるようですね。 格納箱と格納状態のアップです。シグナルR様も書いてあるのですが格納箱に収納、また組み立てが非常に面倒でした。(赤道儀本体と 三脚架頭を分離、三脚を取り外さなければ収納できませんでした。)今回CharlieB様の収納う画像を見て納得しました。 三脚を取り付けたまま裏返しに畳んでその間にファインダーを入れて収納するのですね。 しかしながら私のアポロ型の収納箱は、内部に仕切り版があって全体を収納することができません。 どうも別の機種の物のようです。(ミザールスバル型用か?) 赤道儀左右のアップですが、とても綺麗なメッキがされていて、グレー艶艶塗装も美しいものです。全体的にアポロ型は非常に作りが良いようです。 接眼部裏側は日本で販売されたものですのでJAPANの刻印はありません。 ファインダーのアップです。10倍の物と6倍の物を取り付けた状態をアップしました。ファインダー取り付けネジがロックナット付きです。 最後は赤緯微動機構、観ての通りS-5と同じものです。 ミザールアポロ型の発売時期ですが先にシグナスR様がミザールアポロ型、スバル型のスレででアポロ型の接眼部銘板の製造番号より昭和39年頃と推測しています。また子供の科学増刊号(昭和37年)にミザールの広告にスバル型が出ているとしています。 ミザールアポロ型もスバル型と同じころに発売されたのでしょうか?(アメリカのアポロ計画が1961年(昭和36年)から) さてこの昭和37年は、日野金属産業が初めて天体望遠鏡を発売してから5年後になります。 当時、初心者向けの60mm,40mm等の経緯台が日野金属産業の天体望遠鏡販売の主力商品だと思いますが、天体望遠鏡参入5年でいきなり高級機の発表販売、に至ったところに何かしら1958年(昭和33年)アストロ光学(株)倒産と関係があるのかなと思うのは私の考えすぎでしょうか? この日野金属産業のアポロ型、スバル型ともに非常にマニアックなスペックを持っています。 他社同クラスの60mm赤道儀より焦点距離100mmのアドバンテージまた目盛環の装備等、日野金属産業が独自に企画販売したのでしょうか? 日野金属産業は金属材料の卸問屋から出発していたのでアストロ光学の専門工場と何等かの取引でもあったのでしょうか? いずれにしろ専門工場の一つで製造された物と思います。 アポロ型発売当時ライバルになると思われるアストロ光学工業はS-5Aベース、架頭取り外し式方位角修正、鏡筒バンド、赤緯微動ノブが接眼部側にある等改良されてます。 旧タイプのS-5ではちょっとスペック的に見劣りします。 日野金属産業にアドバイスした方が専門工場等にいらしたのでしょうか?(小島修介氏は1960年に亡くなっていますので日野金属産業にアドバイスしたとは考えにくいですね) この後アストロ光学のS-5は形を変えケンコー、カートン、など各社にて販売されていきます。 不思議なのは、ケンコー、カートンなどは赤道儀の方位角が任意に変えられる物を発売していますが日野金属産業(ミザール)はアストロ光学オリジナルベースのアポロ型をニューアポロ発売まで継続販売しています。 そのニューアポロ型にしても赤道儀は方位角固定式、鏡筒バンドはなくアポロ型の形式を継続してます。(先のH-100も方位角固定ですね。) 思うに日野金属産業はオリジナルの赤道儀を開発するにあたりアポロ型の赤道儀(アストロ光学)をベースに改良を加えていったのではないでしょうか? そういうう意味では、小島修介氏設計S-5のレガシーを最も受け継いでいったのはミザール日野金属産業!!? 駄文、長文失礼しました。 田間
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
ガラクマ - 2021/01/10(Sun) 21:54 No.12573
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2021/01/10(Sun) 22:09 No.12574
Re: 【アストロ光学(株)その10】 小島修介氏のレガシー
青色つきこ - 2021/01/11(Mon) 12:16 No.12575