中村 要 氏  反射鏡研磨のパイオニア


 中村 要 氏(上の写真の下に書かれてある紹介文)  
「1904〜1932の短い生涯を天文研究に捧げ、1920年からは京大及び花山の天文台員として、流星、変光星、火星、太陽、小遊星、太陽等の観測に励み、又、反射鏡の研磨術を開拓し、本邦の学界に大きな足跡を残した。この写真は昭和7年5月24日花山の30・機室にて撮ったもの。」

 

 ※因に、西の京大では「惑星」とは云わず「遊星」と称するようになっています。東の東大の「惑星」に対抗してのことです。「小遊星」という聞きなれない用語になっているのもこのためです。但し、現在では、東大派が圧倒的に強くなって、遊星の言葉は「遊星歯車」(プラネットギア)などに辛うじて残される程度になりました。

 

 日本での、反射鏡研磨の技術は木辺成麿氏によって確立されたように思われていますが、中村要氏はその木辺さんの師匠に当たる方です。上の本の巻末近くに見習いの形で、木辺さんの研磨記事が掲載されています。木辺さんは、まだ「お弟子さん」だったわけです。  木辺さんとのおつき合いが長く続いた関係で、中村氏の話も随分お聞きしましたが、なかなか厳しい方であったとの事でした。中村氏が何故若くして亡くなられたか、その真意については、木辺さん自身もお分かりになっていないようでした。

 

 上の「天体望遠鏡の作り方」が出版された(現在の、誠文堂新光社)のは、昭和4年8月。中村氏25歳の時です。大変な秀才だったとお聞きしました。

 なお木辺さんの話では、氏の磨いたミラーの何点かは現存している筈---とは云え、持っている方の秘蔵物になっているせいもあって、それが世に出て来る機会は多分皆無であろうとの事でした。一度は拝見したいものだと思いますが、残念な事です。

 天体望遠鏡に使用される反射鏡は、非球面という厄介なカーブで研磨するので、機械で自動的に磨けない代物です。どうしても人間の腕、それも名人芸に頼るほかありませんでした。そこにこそ中村氏や木辺さん達が活躍する世界が展開されていたのです。それは現在に至るもその状況は大勢として変わってはいませんが、人間の手とは全く違う方法でカーブ成形が出来るようにもなって来ています。それは真空蒸着方法というコーテイングの技術を応用する方法です。(詳しくは省略)

  参考

 昭和25年頃の「科学画報」(誠文堂新光社)に載っていた木辺成麿氏の写真。45歳、とあります。木辺さんは錦織寺の門主でした。この頃はお目にかかる以前の年令でしたので、全体に細身で、おつき合いのあった後年のイメージとはかなり違っています。-----という事は、当時の木辺さんは叔母さんの「九条武子」そっくりだったと言えるようです。



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