中国の二眼レフ・カメラ
この中国製のカメラは現在でも生産が継続されていると聞いていますが、それにしても中国であってもかなり古い部類に入るカメラであろうと推測されます。
このテの二眼レフが日本で最盛期を迎えたのは昭和30年前後であったような気がします。高級品はローライあたりの舶来品に占められていましたが、国産の普及品からゲテモノクラスとなると「ブリキのカメラ」として掃いて捨てる程の機種が並んでいました。ちょっと名の通ったカメラの小売屋さんまでも自己ブランドで出したので、本当に数え切れない程あったのです。ブランド名も随分いろんなのがありました。田村さんが出した二眼レフは「アルマート」ブランドでした。田村のローマ字--TAMURA--をひっくり返してそのまま---ARUMAT(アルマート)--とする、そんな案配でした。
二眼レフであれ、カメラを首からぶら下げて闊歩すのが当時のステータスだったのです。以来、かなり最近までメガネを掛けてカメラを肩にして歩くのが典型的な日本人という固定観念を世界に広めていました。その元凶がこのテの二眼レフが主体でした。
上記の中国の二眼レフはあの頃の日本製をコピーしただけの製品でしょうが、どれをどう真似したのか定かではありません。二眼レフの本体はアルミ板をプレスして作るので、通常のダイカストボデーのカメラと違って簡単にそして安く作れる筈です。デザインも殆ど他機種と同じにして構わないし、レンズまわり、シャッター、ミラー部、それらはすべて外注からの購入品で間に合います。従って、似たような製品がいくらでも出来上がる理屈になっていました。
この種のカメラの良い点は、現在の電気?カメラと違って、機械カメラ?なので、ちゃんとした写真を写すとなると勿論むずかしいのですが、メカが文字通り機械的なので感覚的に昔の人には馴染み易く写すのに抵抗が薄いと言えたかも知れません。フイルムも6x9のブローニー判ですからベタ焼き(こんな言葉は今でもあるのかな。密着とも云っていたが・・・)で済む大きさです。
子供の頃、柱時計のネジを巻くのに踏み台の上に乗って、柱の上にかけてある時計のガラス蓋をあけ、精いっぱいつま先立ってネジを巻いたあの頃の感覚を今だに忘れられずにいる御仁に是非お薦めしたいカメラ(--「写真機」、というべきでしょうね。)です。