旧日本軍の双眼鏡

6倍24ミリ KAIKOSHA(偕行社) 写真右下 
6倍24ミリ 昭和光機 写真左下
6倍25ミリ レノックス(東京光学)写真中上

 この中で珍しい製品は「KAIKOSHA」の6倍24ミリです。これは大正10年にドイツ人の設計をもとに日本光学で生産したエルフレ接眼、視界60度の優秀な製品だと思われたのですが・・・。
 KAIKOSHAの「偕行」とは、詳しくは(洩れ聞いた話の範囲になりますが)陸軍指導のもとに設置された学校、各種施設等の軍関連組織を総合した特別な呼称のようです。その中に将校向け専門のクラブが 東京、大阪、その他何ケ所かあったと聞きました。そのクラブの名が「偕行社」と呼ばれていたとの事です。
 今回のKAIKOSHAの双眼鏡は、その将校クラブでのみ売られていた一種のブランド商品であったと考えられます。そして双眼鏡のみならずその場所で手に入れた商品はそのブランド故に将校達のステータスになったと聞きました。それだけに今回のこの双眼鏡もステータスに相応しく抜群の性能を誇っている感じです。
 ただ、手元にある光学関係の文献には上記のように「ドイツ人による・・・日本光学、云々・・・・更に一三式双眼鏡として陸軍制式に採用された・・・」とありますが、ここにある双眼鏡の現物は、5枚構成のエルフレ接眼式は正しいとして文献表示60度の視界はありません。推定50度です。更に、使用プリズムは当然ながらBAK4かと思ったのですが、ランクが下のBK7を使っています。ただ、文献には「生産が間に合わず、軍は他の光学会社をも指定して製造を命じた」とあるので、日本光学以外のメーカーで作られた製品かも知れません。もしくは、生産量アップのため、軍の方でやむを得ず量産向きの仕様に変更したためなのかどうか、その辺は不明です。然し、性能が抜群である点については全く問題ありません。
 -----とにかく[KAIKOSHA]の双眼鏡である事が注目した点です。実際に作ったメーカー名は不明ですが、始めてお目にかかった珍しい双眼鏡でした。

 因に、当時の双眼鏡などを含めた軍隊の武器や装備一般の取り扱いについてはどのような説明がなされてあったか----これも当時軍人ではなかった者の曖昧な憶測になってしまいますが・・・・・。
 まず、最初に「軍人に賜る勅語」が頂点にありました。それは知る人ぞ知る「一つ軍人は、忠節を尽くすことを旨とすべし」(正確には分かりませんが、)と、このような「一つ軍人は...」から始まる大きな項目が五項目くらいあって、その後に、絶対に修得すべき細目がえんえんと続いていたと聞いています。それがため、無学な兵隊にとって細目にわたる項目までは到底丸暗記が出来ずに徹底的にしごかれたとか、そんなハナシがいくらでもあったとも聞きます。
 その下に何段階かの指令書がありました。但し、詳しくは不明です。ともあれ一番下に位置したのが、装備全体についてのマニアル、確か「歩兵装填」と呼ばれた分厚い指導書でした。それには武器全般から部品に至るまで詳細に細大洩らさず使用方法、点検、保管、交換、補充、その他末端の清掃作業の手順に至るまですべて記されていたとあります。従って、ともあれ武器一切「歩兵装填」に書かれた通り、当然ながらそれをはみ出すような使い方は一切出来ず、そして勿論例外も許されませんでした。
 この時の「歩兵装填」の完璧な出来栄えに共感を覚え、現在の会社官庁などの各部署でマニアルの原形として参考にしている組織も多い筈です。現在で云う「マニアルとフオーム」の原点はこの歩兵装填にあるのです。
 「歩兵装填」に掲載されてある武器一切は、同時に、鉄砲のタマやヤッキョウなども含めて、すべて天皇陛下より賜った尊いモノ、それは人命よりも重く、従って場合によっては命をかけてお護り申し上げる神聖なモノとして厳かに記載されてありました。軽々しく扱ったり疎かに出来るシロモノではなかったのです。因に、薬莢(やっきょう)一個を紛失して申し訳のため自殺して果てた兵隊のハナシがありました。確か「人間の条件」(五味川純平著)の中の一節でした。
 従って、軍の双眼鏡一台、個人で面白半分に使用するなどとはもってのほかで大変なバチ当たりになった時代でした。ホントに、場合によっては銃殺刑に処せられる位の重大な懲罰を課せられたと思われるのです。

 そんな時代、たった一つの例外として、上記、将校クラブで手に入る「KAIKOSHA」の製品は双眼鏡に限らず個人所有が認められていた数少ない製品だったと思います。然し、手にすることが出来たのは一部の将校というエリート集団のみに限られていました。一兵卒などには到底無理なコトで拝むことも出来なかった夢のような商品だったのです。将校達は「KAIKOSHA」製品を大いばりで見せびらかしていたに違いありません。そして自由気ままに、思う存分使ってしばしの間 充分に英気を養ったと思われます。

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 武器には常に正式な型式番号がついています。この双眼鏡にも陸軍正式採用の分には一三式双眼鏡として登録されたとあります。然し、これは残念ながら浅学の身には正確には説明出来ません。(昭和13年に作られた?と云う記号?)
 ただ、登録の年式は当時の日本歴に基づいている事だけは承知しています。
 当時の日本歴は皇紀で表されていました、昭和15年が皇紀2600と覚えておけばキリが良いので覚え易いかも知れません。皇紀2600年に登録が決定された機種はすべて0番から始まります。有名なものはゼロ戦、つまり零式戦闘機は皇紀2600年(昭和15年)に出来たのです。一式陸攻という爆撃機がありますが、これは皇紀2601年、つまり昭和16年。二式大艇という飛行艇は同じく皇紀2602年(昭和17年)です。
 逆に、九三式双眼鏡となると、皇紀2593年、これは昭和8年、八九式となると、昭和4年、と、なります。
 その昔、三八(サンパチ)銃という有名な陸軍の鉄砲がありましたが、この計算では明治の始め頃出来た銃となります。但し、そんな旧式な銃を大平洋戦争を通じて使用していたのかと不思議に思います。「三八式銃」とはこれ又有名な「村田銃」の流れから出て来た銃だと思っているのですが?。然し、いかにもそれではおかしいので、もしかしたらこちらの知識不足のせいで間違いかも知れませんが。
 いずれにしても一三式となるとこれだけが昭和十三年という元号を使ったとも考えられないので正確な判断が出来ません。
ギブアップです。世間にはミリタリーマニアと云うべきか、この方に滅法詳しい若者もいると思われますので、助っ人が欲しいところです。
 
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 写真下右の、昭和光機の6倍24ミリの方はKAIKOSHAの製品と殆ど同一の製品です。仕様、性能も見た範囲では変わりません。ただ面白いのは 上カバーの刻印箇所に MADE IN OCCUPIED JAPAN と大書してある点です。つまりこの双眼鏡は戦後に民生用として生産された事が分かります。以前にも取り上げましたが、この表示はアメリカの占領下にあって作られたモノ、つまり「負けた国が作りました」-----と書いてあるようなものです。みっともない時代があったものでした。然し、この横文字は今となっては当時を偲ぶ懐かしい骨董的な響きで聞こえてきます。
 この双眼鏡は占領下に作られた製品ですから勿論戦後生産された双眼鏡です。但し、察するところ、戦争中に倉庫に積んであった残部品を使った機種だと思うので、実質的には軍用双眼鏡だったと考えられます。従って、性能その他についても全く問題はありません。
 これらの6倍24ミリの双眼鏡は軍事用としては華々しい活躍をした名器だったのでしょうが、民生用としては迫力不足で、長く作られることはありませんでした。戦後は輸出用に相当数生産されたと云われていますが、作ったのは日本光学、富士写真光機、それと昭和光機の3社のみ、然し、それも間もなく製造を中止したと聞きました。

 6倍24ミリ双眼鏡は日本人の手には馴染み易い大きさで、国内向けにももっと作られて然るべき双眼鏡だっと思いますが残念な事です。

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 東京光学のレノックスは6倍25ミリで、前述の6倍24ミリとは対物レンズ径がわずか1ミリ大きいだけです。然し、図体はかなり大きく出来ています。
 東京光学には24ミリ専用のボデイはありません。レノックスのブランドには6倍20ミリ、6倍24ミリ、6倍25ミリ、この三機種がありましたが、すべて同じボデイを共通して使っていたと思われます。従って一番大きい25ミリ対物レンズにボデイサイズを合わせたと思うので、その分だけ大きく出来ていることになります。但し、そう云っても大き過ぎるという程の大きさではありません。
(上の写真はデジカメで写したものです。デジカメのレンズは小さいので、遠近が極端に誇張されて出ます。それを避けるとしたら離して写せばよいのですが、その場合はフラッシュの効きが不足します。どちらにしても褒められるカメラではありませんね。レノックス双眼鏡は三機種の中では一番大きいのですが、ここでは逆に最も小さく写ってしまいました。)
 
レノックスで分からないのは、この製品に何故英語風の横文字ブランドが刻印されてあるか、という事ですが、レノックスが昭和七年、東京光学創立と同時に昭和20年終戦まで続いたとすると、やむを得ずブランド名も変更される事もなく戦争中も使用を許可されたと考えるほかありません。本来ならメーカー名だけならまだしも戦時中ではそんな横文字の洋風ブランド表示は許されなかった筈だと思われます。
 いずれにせよ、戦後レノックスは戦時中の残部品を使って生産され、在庫がゼロになった時点で間もなく生産が終了しました。

 三機種共、ボデイの革張りは施されずに全塗装で仕上がっているので、終戦前後の製品である事だけは確かで間違いはありません。
 性能も問題がありません。立派な製品です。但し、このレノックスは接眼レンズはエルフレではなくケルナーのようです。25ミリ対物の分だけ高価になるのを避けるためにケルナーを使用したのか、それともそもそもケルナーで最初から設計されていたのか、詳しい意図は不明です。視界は8度とあるので見かけ視界は48度。もう少し広くてもよいかとも考えますが広くない分だけ像はクリアーで全くクセがありません。

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参考]
 財団法人 日本望遠鏡工業会 に「偕行社」について問い合わせたところ、下記の返事が届きました。

 先日ご依頼のありました軍用双眼鏡の販売店名が判明しましたので(辞書の大辞林に記載されていました)ご送付申し上げます。宜しくご査収下さい。
 ------『偕行社』陸軍将校および同相当官の親睦・軍事研究を目的として1877年(明治10年)設立された団体。後年、共済組合的性格が強くなった。第二次大戦後解散→水交社

 最後の「水交社」が不明ですが、これは陸軍に対抗して海軍にも同じような将校クラブがあって「水交社」と称していたという事かも知れません。だとすると「SUIKOSHA」のブランドの双眼鏡もあったとなりますが、今回は追求せずにこのへんで締めておきます。

 以上、今回はそれぞれの製品の内部まで立ち入る事はなしに、主に、もっぱら曰く因縁について書き並べてみました。当時の偕行社といっても、存在そのものが過去の世代にあったわけですから、こちらでは憶測や推測を重ねて独断で展開するほかありませんでした。

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 やはり「偕行社」が気になっていろいろ調べてみたところ次のような文面が見つかりました。

「日本陸軍の将校クラブ。1877年(明治10年)創立。1890年それまで部内の自発的な研究団体として存在した月曜会を強制的に合併して、以後、全将校を包含する唯一の官制組織となった。1924年財団法人となる。講話会、集会のほか機関誌<偕行社記事>、兵書などの発行、死亡者などの義助、軍装品および生活必需品などの供給、住宅建設、貸し付けなどの便宜をはかった。社員は現役将校および相当官が自動的になり、退役将校および相当官も<希望により>なることが出来た。拠出金は月額100分の1、東京九段に本部、地方衛戍(えいじゅ)地に支部を置いた。旧帝国海軍の「水交社」とともに軍隊上層・中堅の生活、およびイデオロギーの側面での団結を促進する役割を果たした。1952年旧軍人の間で親睦会的組織として再発足し、機関誌<偕行>を発行している。」
 
※この中で「衛戍地」の意味が不明ですが、現在の「国立病院」の前身が「衛戍病院」と称していたので、衛戍病院のあった場所、それは陸軍部隊のあった所、となると全国の主要都市と思われるので、偕行社は全国的に支社を持っていた事になります。

 ついでに「水交社」も調べてみました。

「旧日本海軍将校の親睦・社交団体、およびその施設。海軍高等武官、士官候補生、海軍高等文官、試補を社員とし、海軍武官の皇族を総裁、海軍大臣を社長とした財団法人。社名は <君子之交、淡若水>[荘子]にちなんだ。1876年海軍将校の親睦クラブとして設立、77年水交会と改称され、78年水交社となった。陸軍の偕行社と同じく、研究・親睦・共済の機関とされ、東京や鎮守府、要塞部所在地に設けられ、機関誌<水行社記事>を1890年から発行した。偕行社が将校集会所として出発したのに比べ、水交社は海軍クラブの性格を持った。第2次大戦後解体し、施設の大半を失ったが、1954年旧海軍将校の連絡親睦団体の水交会として復活し、機関誌<水交>を発行している。」

 -------以上 参考まで。

 ※ ついでながら、追加で分かった事がありました。
 陸軍将校が装着している「軍刀」は軍からの支給品でしたが、海軍将校が装着している「サーベル」は軍からの支給品はなく、すべて海軍将校が水交社で自前で購入したものとの事です。
 なお軍刀は昔からの日本刀で<反りがある>もの。一方のサーベルは直刀の古来からある西洋刀で<反りがない>もの、この程度の区別は分りますが、本来はもっと厳密な違いがあるのかも知れませんね。
 兵隊は陸海軍共々、短い刀を差していました。陸軍のそれは通称「ごんぼけん」(牛蒡剣)と呼ばれていたとか。そんな謂れも聞いたことがあります。

 なお「軍人勅喩(ちょくゆ)」「歩兵装填」に関する資料は見つかりませんでした。従って、今回の文面には認識不足からのミスが含まれているかも知れませんが御理解下さい。


 ビジターから頂いたメール

前略ビクセン光学様

私はミリタリー系のコレクションを趣味としている者ですが、先日「KAIKOUS
HA」の双眼鏡を入手し
何か資料はないかとネットで検索をかけました所、こちらの「博物館」がヒット致し
ました。
そこで内容を読ませて頂いて気が付いた事を幾つか書き送らせて頂きます。

旧陸海軍の年式表記についてですが、最初はその兵器が採用された「元号」(明治や
大正)の年を
名付けていました。
例えば明治38年に採用された歩兵銃は「三十八年式歩兵銃」ですし明治41年に採
用された山砲は
「四十一年式山砲」になります。

その後元号が変わって「大正」になった時年式が若返りましたが、明治13年に採用
されていた「十三年式村田銃」
は既に旧式化していて制式装備から外されていたので問題にはなりませんでした。
尚、大正時代に採用された
装備は「三年式重機関銃」「十三年式双眼鏡」「十四年式拳銃」等があります。

ところが「大正」は15年で終わって「昭和」となってしまったので、今までの年式
表記だと新旧が入り混じってしまう
危険が出て来ました。

そこで「昭和」になってからは元号ではなく「皇紀」(神武紀元とも)の年から下2
桁を使う事になりました。
この表記で最初のものは「八七式重爆撃機」「同軽爆撃機」でした。因みに皇紀年式
の読み方は
「はちじゅうなな」ではなく「はちなな」となります。
更に申しますと、明治以降長い間使われていた「三十八年式歩兵銃」などは後に「三
八式」(さんぱちしき)と
紀元年号と同様に呼ばれる様になりました。

これはその後終戦までずっと続き「八八式七糎半野戦高射砲」「八九式中戦車」「九
〇式鉄帽(鉄兜)」
「九一式手榴弾」「九二式銃機関銃」「九三式双眼鏡」「九四式軽装甲車」「九五式
軽戦車」
「九六式艦上戦闘機」「九七式大型飛行艇」「九八軽爆撃機」「九九式軽機関銃」な
どなど。

尚、昭和15年の「皇紀2600年」は陸軍と海軍で張り合って、わざわざ「百式」
(陸軍)
「零式」(海軍)と別々の呼び方をしていました。その後「一式」から終戦の年の
「五式」までは
以前と同じ様に陸海軍で同じです。

この方面の資料は沢山出ていますが、並木書房の
「ミリタリー・ユニフォーム8  日本陸軍兵器資料集」
(宗像和広/兵頭二十八{編著}  定価2400円)
が、双眼鏡(他に砲隊鏡や測遠機)について割合良く書かれているので参考になるか
と思います。

以上、長々と書き込んでしまいましたが何がしかのご参考になれば幸いであります。

それでは。

H.N.昭和元年

余談ながら、文中の「歩兵装填」は「歩兵操典」の誤りではないかと思います。



 それに対するこちらからの返事

 H・N 昭和元年様 ??

 ビクセン光学(株)担当者より

 長文のメール有り難うございました。大変興味深く拝見させて頂きました。
 私共のHPはすべて私が書いて載せてあります。ただ、私の場合は、古い双眼鏡といっても相手様に蘊蓄を傾ける程の知識は持ち合わせておりません。仕事の流れから勝手な事を思いつくまま書き並べているだけで、参考になる内容でもない事を本当に申し訳なく思っております。

 H・N 昭和元年様??とありますので、昭和元年にお生まれの方でしょうか。もしそうだとしたら戦歴もお有りの方とも察しられますが?・・・。
 

 戦時中子供に過ぎなかった私の場合は「村田銃」「サンパチ銃」や「一式陸攻」そして「ゼロ戦」「九六艦攻」等々は記憶に残っていますが、それ以外となるとそれ程の記憶もなく知識もありません。「二式大艇」などは戦後得た知識です。「戦艦大和」「紫電」「紫電改」等も知ったのは戦後でした。
 そして又、双眼鏡とかとなると全く見た覚えはなかったし、砲隊鏡や測距儀等はその存在すら知りませんでした。大体、当時住んでいた市内にあった聯隊にはとうのムカシから兵隊などは誰も居なかったのです。見た事のある飛行機はB-29のみで、日本の「ヒカウキ」はゼロ戦にしろ隼にしろその姿は一度も拝見せずに終わりました。

 ---そんな程度の「私」です。

 因に、「KAIKOUSYA」の項には、サーベルと軍刀について簡単に書いた箇所があります。但し、後日調べた範囲ではまるで違っている事を書いているのに気が付きました。
 みっともない事で弁解の余地もありません。
 「歩兵装填」もペンで書いている分には絶対に間違う箇所ではないのですが、ワープロでの漢字変換の怖さ、で、あっと云う間に変換され、一度流れるとそれから先ではミスタッチに気がつかないのです。全く赤面の至りです。

 年式の件は、かなりの年配者にも聞いてみました。然し、今更ながらの事で知る者にはついぞ巡り合えませんでした。
 貴重な参考意見本当に有り難うございました。

 



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