大森総合光学のミクロン双眼鏡
6倍15ミリ
----それはゼンマイ時計の感触---


 
昭和30年以前の製造と思われる大森総合の6倍15ミリ

左--今回の大森製品  右--ビクセン製品 (9x20mm) 昭和50年頃製造。

 大田区池上にあった大森総合光学(株)はミクロン型双眼鏡の草分けに近いメーカーでした。ビクセンのミクロンと殆ど同じ構造デザインで作られていました。どちらが古かったのか、あまりに古い事なので、当初を知る古老?も現在は見当たりません。いずれにしてもビクセンと競い合って生産をしていた事は確かです。ビクセンは国内販売、あちらは輸出専門という事で棲み分けがはっきりしており、お互いの間柄には何のトラブルもなかったとの事です。外注先も、その殆どが共通して重なっていたという話しでした。

 両者の製品は似ているとは云え、違う点もあります。クルマ(転輪)の位置が大森総合の方が接眼側にあるのに対してビクセンのは対物側にあります。然し、大きな違いはそれ位で、見た限りではその他の違いは見当たりません。
 接眼見口が金属で作られていますが、そのタイプは本当に古いタイプで昭和30年以前の製品です。勿論ビクセンの方も同じでした。金属からエボナイトへ移行し、それがプラスチックへ、そしてゴムへと変更されていきましたが、すべて時代の流れに沿った改良でした。

 今回の製品を見る限り、組み付けはしっかりしていて問題は全くありません。見事なものです。プリズムは高級硝材BAK-4を使っています。各部の動きも実にスムースです。高級機種として作られていたのでしょう。現代の他のプラスチック多用双眼鏡とは全く違った古典的?感触が得られます。
 覗いてみて至近距離が約4メートルである事が分かりました。当時としてはその範囲に収める事はかなり困難だった筈です。因みに現在の小型機種では3メートルが条件になっていますが、至近距離の条件は昔からの課題でした。とにかくアッパレです。

 この種の製品では、ネックになる部材部品は多く、当時でも他の方法では出来ないモノが多くありました。例として上記のビクセンの9倍20ミリの方の長い対物筒があります。それなどは丸棒をくり抜いて作っていました。大森総合のこの短い対物筒も同じです。その他の方法では出来なかったのです。対物筒のみならず、レンズ室、接眼部まわり、等々、大半の部品部材はすべて丸棒くり抜き加工です。

 それらを引き受けていたのは今では考えられない「ろくろ屋」と称する前近代的な加工屋でした。「ろくろ屋」が大繁盛していたのです。「ろくろ屋」に依存した理由は、 単価の高い真鍮使用の部品を加工しても、加工がし易い事で加工賃が安かった事。トータルではその方が得だとの算段が働いていました。
 然し、「ろくろ屋」の加工費は、最初の頃は安かった事もあって、高い真鍮材を使っても十分にキャンセル出来たのですが、やがて工賃が急上昇し、それがため真鍮からアルミ加工へと、いやがおうでも転換せざるを得ない時がやって来たのです。加工技術もそれを可能とする普通旋盤加工からそしてNC旋盤へと移行していかざるを得ない時代になっていました。然し、零細工場に過ぎない小さな「ろくろ屋」では、技術的、能力的、資金的、等々に、到底それらの近代化には対応出来なかったのです。その結果、不幸ながら、「ろくろ屋」は、時代に遅れやがて消滅の運命を迎えてオワリとなってしまったのです。

 この製品も後半では「ろくろ屋」オンリーから脱却し、対物筒は冷管プレスで、エキセンリングは押し出し材で...等々、半加工状態の素材を使う事になり、又、真鍮部品の多くは安いアルミ部品に置き換えNC旋盤加工にまで曲がりなりにも辿りつきました。
 然し、他の双眼鏡では、それでもコストが高い-----と云う事があって、プラスチック材を大量に使う先端的仕様設計にと構造改革?を既にやり遂げていたのです。ミクロン側としてもそれは充分に分かっていても結局は設計上からもデザイン上からも到底ついては行けず、やがて敗北を予感せざるを得ない状況を迎えてしまいました。
 半加工材やアルミを使ったところでプラスチックには勝つスベもなく、中途半端なまま、それがもとで「資本の論理」なる冷徹な原理に敗れ、市場から脱落せざるを得なかった--となってしまったのです。それがミクロンが辿った悲しい敗北の歴史なのだ、と言えるでしょう。

 双眼鏡には現在に至るも電子器機の組み込みはあまり見当たりません。強いて云えば赤外線を利用した距離測定用双眼鏡、自動フオーカス双眼鏡、手ぶれ防止装置内蔵双眼鏡、等々、少ないとは云え無いわけではありません。然し、当然ながら、その勢いは時とともに増加する傾向にあるのは否めません。
 ミクロン双眼鏡ではどうだったか、黒い本体だけが最初からダイカスト製で、あとの大半の部品が「ろくろ」による金属機械加工に依存しました。
 そんな視点から眺めてみると、いわばこのミクロンは、ありし良き時代の典型的な「機械双眼鏡」だったと云えるでしょう。従って、見れば見る程丸ごと手作りに等しい名人芸の製品だと思えてしまうのです。

 当時の「ろくろ屋」の親父さんの顔が浮かぶのですよ。呑んベエでだらしのない「ぐうたら男」でしたが、それなりの気骨はありました。
その男の渾身を込めた仕事であればこそ最敬礼をしたい気持ちにも駆られました。
 但し、大森総合のミクロンには壮年期の彼の輝くばかりの「汗」が光り、一方、ビクセンのミクロンには初老に達した彼の、黄昏の「涙」がにじんでいるのを見た思いでした。栄枯盛衰は、どの世界そしてどの人生にもあり得るのだ、と云う事でしょうか。

 その昔、子供の頃、柱時計のゼンマイを捲くのに、机と椅子を重ねて精一杯背伸びをしてギイギイと捲いて一息ついた---あの感触。現在は何もかも電子化されて確かに便利になって、それにのめり込みながらも、往年の機械製品に思いを馳せる----そんな記憶を蘇えさせてくれた----それがこのピカと光った高精度のミクロン双眼鏡でした。



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