宇宙へのパイオニア
法月惣次郎さん
世界的望遠鏡つくりの名人

 ビクセン光学(株)の手元に、上記のような立派な本があります。法月(のりづき)惣次郎さんの生涯を記録したものです。(A4 変形133頁)
法月さんは主に大型の天体望遠鏡、電波望遠鏡を作られてきた方です。ビクセンとは同じ業界に属する方なので、なにがしかの接触もあって然るべきだったと思うのですが、折にふれお名前を聞く事はあっても、私共とは直接の関係はなく勿論面識もないまま終わりました。

 法月さんは、明治45年静岡県和田村(現・焼津市)生まれ、平成7年3月 83才で亡くなられました。

 この本を拝見して、まず目に止まった箇所は、高等小学校を卒業(14才)したあと、近くの鍛治屋に「丁稚奉公」に出されたと云うくだりでした。(「丁稚奉公」---この文字が読めますか?。「デッチボウコウ」と読みます。)当時は、小学校を卒業した子供の大多数は、左官、大工、漁師、等々に、奉公の名のもとに無賃の修行に出されたのです。子供達はそれぞれの所で「手に職を得る」べく修行を重ねた時代でした。
 法月さんと一緒に奉公を共にした仲間二人は途中脱落、最後まで残った法月さんは6年間の年季を勤め上げ、更に、お礼奉公と云われた「ただ働き」を一年続けて奉公をし終えた、と書かれてあります。
 法月さんの親方さんは、多分、もの凄い親方さんだったと思います。時代からして、見るからに鬼のような厳しい親方だったと察しられます。
 然しながらその親方さんが亡くなられた時は小型トラック一杯分の本を持っていたと云う事と、独学で英語、数学、機械、電気、等をマスターしていたとの事、鬼は鬼でもさしずめ「大博士の鬼夜叉」と云った恐るべき親方だったのでしょうね。
法月さんはこの親方に死ぬ思いをしながら魅せられたようについて行ったのだと思います。

 子供時代に身につけた原体験はその人から一生離れないもの。法月さんは一生を鍛冶屋の仕事に捧げたような方でした。
 それを全う出来たのは、脱落せずに遮二無二親方について行った丁稚と、その丁稚を最後迄面倒をみた親方さんが居ったため。ここでは共々ご立派だったと申し上げるほかありません。


  話はちょっとそれますが・・・、
 明治生まれの法月さんと違って、昭和生まれの私の年代であっても、子供の頃に見かけた町の「風物詩」に、針供養と同じ日に「バイト(旋盤に取り付ける刃物)供養」と称して毎年機械屋さんでお祭りをしていた光景を見た覚えがあります。-----(「針供養って何?」と云いたい貴方、恐縮ながら御自分でお調べ下さい。)
 機械屋さんには「しもた屋」の中に油だらけの機械が何台か並べてあって、御主人はいつもその機械をギイギイ言わせながら夜おそくまで仕事をやっていたのに、その日だけは仕事を止め、小僧と一緒に綺麗に掃除をして神棚にお灯明をあげ、神主さんをお招きしてお払いをしていたのです。
 法月さんの親方さんの仕事場はどうだったか詳しくは勿論分かりませんが、察するところ、普段は汚れ放題だったのに、そんな日(正月等も含めて)は多分、徹底的に掃除をされてビッカビカに光ったのではないかと思うのです。綺麗になったのは良いとして掃除にこき使われた丁稚にとってはたまらない日になったと思います。歯を食いしばって頑張った法月さんの顔が彷佛とする思いがします。
 然し、くたびれ果てた法月さんもその時は神妙に手を合わせ神棚に向かって深く頭を下げたと思うのですが、どうだったでしょうか。

 鍛冶屋の仕事は大変な仕事です。とにかく重労働です。
 それに加えて、冬は冷たく、例えばそこらに置いてある鉄板など、その冷たさに触っただけでビリビリと来る痛さを覚えた筈です。又、そんな鉄片のひとつでも間違って落として足に当たった時の痛さなど脳天を直撃したと思います。逆に、夏は、炉の熱があって物凄い熱さに悩まされたでしょう。とにかく因業な商売と言えたでしょうね。小学校を出たばかりの子供にとっては地獄の仕事場だった筈です。

 大昔の事ですが、この私も鍛冶場でバイトを作らされた事があります。別にプロになるためのものではなく、初歩の真似事にすぎませんでしたが・・・・・。 昭和の時代ですから、明治時代とは違ってすべての機械は動力で動いて、人力を要する工程は幸いな事に殆どありませんでした。
 命示された工程は、適当な鉄片をトンテンカンと打ち続けて、所定の大きさに荒く仕上げて、次は、その鉄を炉の中に突っ込んで温度を上げ、指示された温度になった時点で水に入れ急冷させて焼き入れをする、と云った工程でした。どの時点で水に入れるか、それは、鉄の熱せられた色をいかにして見極めるか、それにかかっていました。熱し方がたりないと焼きが不足してまるっきり切れないバイトが出来ます。過度に熱すると鉄片の先からピカピカと花火?が出て、焼きを入れたあとは刃先がポロポロとこぼれて使いものにはなりません。更に、よく出来たそのあとの刃先を整えるための研摩、それも大変でした。とてもとても簡単に出来る仕事ではなかったのです。
 熱による鉄の微妙な色を見極める---それを覚え込むとなったら子供では無理、修得するまでは並み大抵の訓練、それも長期にわたる修行が必要になります。

 焼き入れの仕事ひとつ取り上げても大変な事。鍛冶屋の仕事は勿論それだけではありません。それも何事も人力だけ、人力ですべてをマスターするとなったら途方もない努力が必要なのです。丁稚奉公の法月さんが、七年間、よくぞまあ続けたもんだと感心するほかありません。
 法月さんは「口より早く手の出る」親方、「この子は---と見込んだ時にはとことんまで面倒をみた」親方、その親方の下で、骨の髄まで鍛造の奥義を叩き込まれたのだと思います。

 法月さんの一生には座標のブレが見当たりません。鍛冶屋の丁稚奉公から、そのままの延長線上に大型天体望遠鏡が花を咲かせているのです。

 因に、昭和の中頃まで、日本にも若い優秀な職人が大勢いました。その中から選りすぐられた多数の職人が「世界技能士大会(正確な名称は忘れましたが)」にチャレンジしたのです。鍛冶工は勿論、旋盤工、フライス工、仕上げ、木型、板金...等々が挑戦し、連戦連勝の実績を挙げました。日本勢は常にトップの座を占め独壇場を維持し続けたのです。「法月さんの後輩」が目白押しに存在した時代でした。

 現在はどうか?。往年の輝きは全く見られません。入賞者は殆どゼロです。日本に代わって名人の座の大部分は中国・韓国勢に占められています。
 --------この現実をどう思いますか?。
 法月さんの存在を懐かしむと同時に失われた無念さが押し寄せて来るのです。法月さんにはもっと長生きをされて数十人でも数百人でも!!更なる後輩を育てて頂きたかったと思ったものでした。本当に残念の極みです。

法月さんが架台部を作られた美星町101cm。

法月さんのお仕事は、その大半が上記のような官庁大学関係に占められていました。

「宇宙へのパイオニア 法月惣次郎」---この本は焼津市にお住まいの渡辺和夫さんからご縁があって寄贈されたものです。渡辺さんは法月さんの仕事を手伝われた方、美星町の101cmの架台部の製作、焼津市天文台の80cmの同部分の製作、等をお手伝いされたとの事。

 法月さんをバックアップされた渡辺さん始め大勢の方々がこのような立派な本を出されたと云う事は、やはり法月さんの人徳による、と思うだけです。



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