ドイツの双眼鏡の本
軍事用を主体に書かれてあります。

 Hans.T.Seeger(1939~)という学者が書いた双眼鏡の本です。大変な力作です。本のサイズはA-4とほぼ同じで485ぺージ、出版は1996年で個人出版のように見受けられます。堂々たる本です。内容はすべて第二次世界大戦で使用された軍用の製品についてのみ書かれてあります。民需用はありません。何故軍用だったのか、カメラの場合などで見かける軍需民需併記は出来なかったのか、それらについての詳しいポリシーの説明については不明です。
 中は大半がドイツ語で英語の部分も多少ありますが、いずれにしても残念ながら浅学の身ですから読めません。然し、出ている写真を見ただけで何とはなし分る箇所も多いし、英語の箇所では多少は読めるのでそれなりの理解も可能です。

 著者の年令では戦争には参加してないので、著者が何故これほど軍事用の双眼鏡にこだわり続けたか理由が分りません。不明です。本の中にその経緯については書いてあるのかも知れませんが、然し、理由がいかなるモノであれ双眼鏡に精通している事自体稀有です。通常の神経ではちょっと考えられない気がします。
 これが例えば、カメラ、ヒコーキ、軍艦、そして銃、と、なにがしかマニアの道に通じるモノであれば納得できるのですが、残念ながら、昔の双眼鏡にこだわるマニアとなると聞いたタメシはありません。しいて挙げれば-----その昔、大阪にあった河原写真機店の河原栄一氏は、カメラの蒐集マニアで大変有名な方でしたが、その流れから昔の双眼鏡にも手を出されかなりの数集められていたとの事でした。有名なものとして、東郷元帥が持っておられた変倍レボルバーのついた双眼鏡を座右に飾って楽しんでおられたと漏れ聞いた事があるのですが------個人で双眼鏡に興味を持った人となったらその程度です。双眼鏡はマニアックな対象にはなっていないのです。

 そんな事から、とにかくこのドイツ人は途方もない精力を費やして世界では誰一人手も出さぬ分野に手を出して、この本を完成させるまでに至った珍しい学者です。異色のスーパーマン(!!)です。そう申し上げるほかありませんね。

 一般的に、大口径双眼鏡などで比較される日独の仕様の差には次のような差があると云われてきました。日本の場合は平凡なスタイルに、とにかく大きい対物レンズを付けたがる、という点。一方、ドイツではやたらと光路を曲げたり短くしたり、超ワイド接眼レンズをつけたような変型タイプを好む、という点です。作るモノに対する姿勢の違いがそのままこのような本の出現にまで影響して出て来てしまうのか----これが最初に感じた印象でした。
 因に、日本での光学兵器に関しての記録は、戦後それほど経ない頃、国レベルの委員会(?)が作られ、ありとあらゆる光学兵器についてトータル的に記述された本が出ました。写真は勿論、可能な限り全体像を示す図面なども豊富に入っていました。かなり分厚い本でした。つまり、その本は公式に出された本ですから精緻に書かれれているのは勿論、各種の分類もしっかりしていて誰が見ても理解出来るように配慮され資料としては100点満点の本だったのです。
 一方、こちらの本では何を基準にしてハナシが進んでいくのか、例えば「時代」なのか、「口径」なのか、「メーカー別」か、もし、それらがあったとしても、何故それを基準としたのか、とは云え最後までその基準一本で通していないのは何故か、どうしてなのか、等々、それらの理由が分りません。見る側にとっては、筋書きが勝手にどんどん発展していくだけ、そう映じます。とにかく秩序がありません。その分脈略がはっきりしないのでむしろ朦朧としていて神秘的に奥が深いと感じてしまう始末です。
 シンプルな本体構造に小さなレンズから大きな対物レンズに至るまで順次付け加えて、システム的に大きな流れを作って開発を進めていく日本。逆に、一点主義で、種類毎に独立したジャンルを築き上げ、それを多層階構築するドイツ。その違いが本のスタイルにも投影されているような気がしました。

 この本の内容を要約するのは中身が豊富なだけに殆ど不可能です。更に、掲載されてある機種の中から興味を惹いた機種のみ抜き出せ、と云われてもそれすら出来ないほど中身は詰まっています。従って、ここでは個別のピックアップは止めにして、雰囲気として感じられたイメージを中心にごく僅かな部分書き出して、その印象を記す程度にして済ませてあります。

 そんな例を一つ
 偉そうな軍人がもたれかかっているのは、はっきり分りませんが巨大な鏡筒で、複数の接眼部が取り付いているので何人かで見られるように作られた測距儀のようです。これを作って御満悦な表情をしているエライ軍人の顔が滑稽に思えます。今だからこそ時代遅れのゲテモノだ、と評するのは簡単ですが、当時はこれでも最先端をいくハイテク兵器だったのです。このような大袈裟なシカケを見るのはホントに楽しいものです。然し、これはドイツ人だからこそまだサマになる光景で日本の兵隊が眺めている写真ではまるで似合いません。日本人がもし、これを真似てその気になって作るとしたら、このスタイルではなく、水玉模様などの和紙を丸めてこれより倍以上も太い鏡筒を作り、数十センチ径の虫メガネ級のレンズを嵌め込んで、その前で日の丸の扇子を翳(かざ)し「世界一じゃ、世界一じゃ、」と悦に入って得意になっている兵隊共の光景の方が似合います。いずれにしても今となっては、いかにも低レベルな新製品に随分夢中になっていた愚かな人間が大勢いたもんだ、と感心するのみです。


 この本で取り上げている双眼鏡の機種は何種類あるのやら、とにかく凄い種類です。似たような機種も多く、何故その機種が必要とされ生産されたのか、不思議な気になります。道楽で作った機種は一種たりとないわけだし、すべてが作られるべくして作られて来た----それだけは確かです。問題は、「---どうしてそこまで徹底して作り続ける必要があったのか。」この点ですよ。

 あるページでは写真が一杯張り付けられています。ゴチャゴチャしていますが、よく見るとそれぞれが双眼鏡の部材部品のタグイとしては巨大であると同時に途方もなく手が込んでいて複雑精緻です。然し、たかが双眼鏡なのです。現在の電子機器のように、極端なまでに新規開発が必要とされる時代の寵児ではありません。双眼鏡はどういじっても幾何光学の範囲でしか動けない古典的なシロモノなのです。
 勿論、それを承知でただひたすら頑張って作ったのがドイツ人であれば、全力投球でそれを取り上げ記事にしたのもドイツ人です。両者ともその徹底ぶりにはほとほと呆れ返るばかりです。----(そう云いながら、分りもしないのに凝りもせず転記して満足しているのですから、私は、これぞニッポン人!と言えるのかも知れませんね。)

 旧日本軍が使った変倍の250ミリ巨大双眼鏡です。現物は自然科学博物館に置いてあると書いてあります。多分上野だろうと思うのですが、見た記憶がありません。
 見落としている筈はないと思うのですが・・・・。それにしてもこれだけの双眼鏡を作ってどれだけの効果を期待したのだろうか。海軍用とありますが、海上探索では 空を見るのと違って大した見え味は得られません。何を見たのか?。目的は分かっています。敵潜水艦の潜望鏡が水面に出た一瞬間を捕らえようとしものです。その一秒が確かに生死を分けたからです。
 重量は約300ポンドとあります。何キロか分りません。途方もない重さである事だけは確かです。
この機種は1940年に日本光学で2台作られて、とある戦艦に搭載される予定であったがその戦艦が撃沈されたので、満蒙国境に三脚付きで設置されたとあります。但し、そのうちの1台は破壊され、残り1台が日本に戻され修理されたものの、戦後、ターレット方式の50倍と88倍の変倍装置を40倍の単倍に改造して保存される事になったとの事です。

 重ねて思うのですが、分解能は対物レンズの口径次第だ、と言え、何もここまで大きくする必要はなかったとホントにそう思います。重量はまるで戦車並み?ですから、ハンドリングが厄介で素早い対応はまず最初から無理だと分かっていたと思うのですよ。結局、ここでも見えてくるのは「大艦巨砲主義」です。やたらと大きければ、それだけで敵を威圧出来ると信じた「戦艦大和主義」です。「大きい事はいいことだ。」成る程、そうかも知れませんが、時と場合によりけりで、対危険負担率と対費用効果を考えるならば、25センチ1台よりは12センチ10台を分散して複数の艦船に搭載させる方がはるかに理に適っていた筈です。

 上の写真、この双眼鏡の実物を現在私の手元に保存してあります(下の写真)。自分の所に保存してある製品が、思わぬ形で本に出て来ると結構嬉しいものです。東京光学製で、当初はカーキー色(クロームイエロー)だったのですが、分解して再調整する段階でブラックに塗料を変更して組み上げました。分解した時に接眼部の中から、大きくて長大なダハプリズムが出て来て驚いたものでした。現在なら1セットで数十万円はする筈です。戦場では命をかけて仕事をしているのですから、何十万円しようと高いとは思われない反面ちょっとひどすぎると思ったのも無理からぬ筈ですがどうでしょうか。


 金物関係は鉄鋳物が主で、要所は真鍮を使った立派のものです。従ってかなりの重量で、とても片手でひょいと持つわけにはいきません。相当の重量です。フオークマウントは付いていますが架台から下は最初からありませんでした。
 レンズ、プリズムには時代的に当然コーテイングはしてありません。又、地上用ですから接眼部には大型のダハプリズムを使う形式をとっています。----とにかく、どこから見ても完全な製品です。

 軍事用品となると、費用には無関係で、常に最高級品が作られたものと思われます。従って、確かにそれだけの技術的な価値はあったのでしょうが、一方、コストを出来るだけ低く押さえるために、精度も実用上差し支えなければそれ程うるさく云わずに、規格をゆるめて量産品にした方がよかったのではないのか、と、そうも思います。当時、双眼鏡に限らず、あらゆる武器に共通して言えた事だそうですが、コスト意識が全く欠けていたので、常に、最高級の製品が最高額の金額で生産され続けたと云われています。競争の全くない特定メーカーにとっては莫大な利益が転がり込む結構な仕組みだったのでしょうが、これでは納税者にとってはたまったものではありませんね。

 軍人は命を賭けて使うものだから最高級品でなければならない、とする理屈に文句を云うつもりはありませんが、1台が敵にやられてそれでオワリとしないためにも、予備を含めて豊富に準備しておくことにこした事はありません。戦争末期には随分とお粗末な木材とか紙などを使った飛行機が登場したのを見ると、当初からその事態の到来を見越してそれ相応の品質政策を確立し明確にしておけば、資源の面でも量的問題は あれ程逼迫せずにかなり軽減されたのではなかったか、と、そう思いますよ。

 これは現在での自衛隊にも共通する問題だとも思います。たった一台の最高級双眼鏡をたった一人の上官が独占的に使っている--とは思いませんが、町に行けば、立派な双眼鏡が大特価大特売されて売られています。殊更に十数万円の高級双眼鏡を選ぶ必要は全くありません。その一台分のカネがあれば、数十台の立派な双眼鏡が買えます。それを全員の兵が身の安全のため等しく携帯しているものと信じているところですが・・・・。いかがなものでしょうか。

 上記の、この双眼鏡を実際に目で見て、その品質の優れている点に改めて感心したのですが、考えてみれば、この本に載っている機種すべてがそうなのですから、双眼鏡のみならず武器一般の値段がいかに高くついているかをイヤという程知らされる事になります。恐ろしいことです。
前述の250ミリ径の双眼鏡などは、推定で2台含めて数千万円どころか億近いカネになったと思われます。実際に見積もりを受けたとして試作の設計代から始めて、ガラスの材料、荒ズリ、研磨、芯取り、・・・・木型、金型、鋳物、加工・・と辿っていくと当然そうなります。それでもビクセン光学だからこそ、そんな値段で可能なのかも知れません。大手メーカーに依頼したとなると間接費が比較にならぬ程大きいと想定されるので、ビクセンの3倍5倍・・・そうハネ上がっても不思議ではありません。

 然し、それにしても、作り上げた製品が応分の活躍をすればまだしも、何もしないうちにやられてしまっては空しさだけが残ります。その最たる例は戦艦大和の三番艦として誕生した巨大空母「信濃」があります。完成した直後の回遊途中、一度たりと外洋にも出ず、試運転の段階で謎の爆発を起こしそのまま沈没!!。戦わずにして抹消というバカみたいな記録だけが残りました。
 巨艦「信濃」一台に巨費を投じるよりは、大量の小型空母を作るべきでした。アメリカですら発艦専門のミニ空母をキャリアーと称して大量生産し日本近海に張りつけておいたのです。

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 ドイツの双眼鏡となると注目したのが、他文献に出ていた120度の潜望鏡用超ワイド接眼レンズです。U-ボートに搭載されていた機種ですが、双眼鏡ではないのでこの本には出てこなかったのかも知れません。双眼鏡としては120度の製品は見当たらず、最高で90度の視界表示でした。可能であれば著者に尋ねてみたいと考えているところです。

 一方、ドイツで作られた最大口径の双眼鏡は意外と小さく、100ミリ程度です。100ミリ以上の機種はその殆どが日本製になっていました。ドイツには何故大口径の機種がなかったのでしょうね。彼我のポリシーに違いがあったにせよ、妙な感じを受けたものでした。
 

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 カールツアイスが「神様」になって、日本光学は「ほとけ様」になった昨今の光学事情のもと、ノスタルジックな意味合いを込めてこの本の著者とビクセン光器工業(株)新妻社長が顔を合わせました。2001年03月11日、場所はニュルンベルグでした。
 ※上の肉筆のサインは、贈呈されたこの本の表紙裏に書かれた筆者からのものです。

 日本の戦時中に作られた双眼鏡を眺めても、別に、それをもって戦争の悲惨さを思い浮かべる事は皆無です。私共に限らず、当時日本に暮らしていた日本人は誰であってもそうは思いませんでした。B-29の猛爆を受け日本中が火だるまになっても実際に双眼鏡を手にして戦争をやっている兵隊はまわりに一人も居なかったからです。敵兵の姿は最後まで全く見る事なしに戦争は終わりました。それに加えて、当時は横文字は一切使われなかったにも関わらず、何故か、双眼鏡の刻印は常にローマ字表示でした。日本光学は「NIkON 」、東京光学は「TOKO」だったのです。不思議ではありませんか?。
 従って、戦争が終わって民需用に生産された双眼鏡が町に出回っても、何の違和感もなしに平和的製品として受け入れる事が出来たのでした。一方、ドイツでの戦争は周囲を国境線で囲まれていたため、いわば巨大な内戦のような様相を呈した惨澹たる肉弾戦が主でした。敵味方入り乱れての凄まじい戦いが続きました。双眼鏡は軍にも民衆側にも絶対的に必要な武器だったのです。ドイツの双眼鏡の視界には生きている敵兵の姿が夜も昼も不断に見え隠れしていた筈なのです。

 ドイツの戦時中の双眼鏡の写真からは、表現しがたい生々しい戦争のニオイがして来るのですよ。もしかしたら著者が追い求めたのは実は双眼鏡そのものではなく、その陰に潜む抜き難い悲惨な記憶を留め置くためにこそ題材として双眼鏡を選んだのかも知れませんね。

   蛇足ながら-----
 ニュルンベルグと云えば、くしくも、ドイツ戦争犯罪人はこの地で裁きを受け名実共に第二次世界大戦は終了したのでした。
 又、03月11日はかって1945年に東京が大空襲を受けた03月10日、その日の翌日となります。日本人は大量の屍体が散乱し廃虚となった大東京の惨澹たる焼け野原を朝になって改めてこの目でしっかりと見せつけられる事になったのです。降伏はもう目前に迫っていることを知らされたのでした。03月11日はそんな日でした。ご参考のために。

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 この会談のあと、更なる一報がビクセン光器(株)に届けられました

 Dear Mr.President.

It was a pleasure to meet you at the IWA in Nuremberg recently and to talk to you. I do hope that you enjoy my book on military binoculars and that you get some information about unusual models. If you want more infomation about Zeiss models please see the brochure about the book on their Optical Equipment edited by me.

If you have questions about old binoculars: Please ask me I will try to give you an answer.

Some parts of my book have been translated into English,Please contact for futher details Peter Abrahams in the US .His e-mail address is: telscope@europa.com  Please refer to me.

I would appreciate information material about the history of your company because I will proceed with my reserch on optics and optical firms

For todal,I remain with best regards

12 March 2001

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最後にひとこと

 ※ リヒアルト・ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」
 遠い日本の地で、この本の中に去来した数多くのマイスターの姿を思い浮かべるに、彼等のイメージはこのワーグナーの曲に登場した役者のイメージに重なるモノを感じます。今となっては壮大な美しいロマン以外何物でもありません。

 そして更に、日本の心をもって表現すれば----
「祇園精舎の鐘の音、諸行無情の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・・」----この1行に尽きるでしょうね。

ビクセン光学(株)



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