光学製品の推移

 光学産業と双眼鏡

 板橋区から川越街道沿いに、光学産業が栄えたという事については前述しましたが、ここでは、その光学産業の中心に位置した双眼鏡、特に標準型となった7倍50ミリの機種を選んで、その盛衰の歴史を書いてみました。光学に興味のある方ご覧になってみて下さい。
 なお、本文には上記文面と重複する箇所が何ケ所かあります。ご了承下さい。

スタンダード7倍50ミリ双眼鏡
(ツアイスタイプ)

 この写真は、10年ほど前のスタンダード7倍50ミリ(ツアイスタイプ)です。
 ただ、ここではかなり前の昭和30年頃から40年いっぱい頃の古いモデルが欲しかったのですが・・・・。

 今回は、特定の機種を取り上げるのではなく戦後の双眼鏡生産の時代背景を改めて眺めて見る事にしました。言わば「戦後の双眼鏡生産の略史」とでも云いましょうか。そんな事に言及してみたいと考えました。

 浅学の身ですから、手許には資料もないし、思い付くまま、気の向くまま、適当なハナシになってしまいますが、まあ、大目に見て下さい。

 昭和 20年、敗戦となって、軍需工場として繁栄した大きな会社はすべて業務縮小を余儀なくされ、それらの会社をリストラ(当時は<馘首>と呼ばれました。)された多数の従業員、或いは復員して来た大勢の兵隊達、更には元特攻隊の生き残り兵等も含めて、彼等は戦争のためではなく祖国の復興のためまだ焼跡が点在する町並みの中にそれぞれの小さな一歩を踏み出したのでした。生活を賭けた新しい戦いが始まった感じでした。
 板橋界隈にあった光学会社も同じ状況でした。会社を去った大勢の若者達は身につけた技術をもとに新しく加わった元兵士達などと共に新しい民需用の光学製品生産に向けスタートを切ったのです。大半はカメラ関係へ、そして双眼鏡関係等々へと雪崩を打ったように集まりそれぞれが自由に全く新しい小さな会社を立ち上げたのです。

 又、大きな軍需工場の下請けとして戦前から続いていたこの道の老舗工場も新会社とは別に民需に向けての新しい担い手になったのは勿論でした。

  双眼鏡関係で云えば、軍需工場でレンズを作っていた者は「レンズ屋」を、ボデイを作っていた連中は「鏡体屋」を、プリズム研摩をやっていた者は「プリズム屋」をそれぞれ立ち上げたのです。但し、レンズ屋といっても更に細かく区分され「接眼屋」「対物屋」「芯取り屋」「コート屋」「バルサム屋」等に分かれ、鏡体屋も「ダイカスト屋」「旋盤屋」、もっとこまかく「中心軸(昇降軸)屋」「メッキ軸(多条ネジ)屋」「キャップ屋」等々に分かれました。
 以下、更に、必要とされた部品部材のための業者は----「彫刻屋」、「アルマイト屋」、「梨地屋」、「塗装屋」、「プレス屋」、「皮張り屋」「エボナイト屋」「板金屋」「メッキ屋」・・・・そして、「エキセン・間隔環屋」「プラスチック屋」「化粧箱屋」「仕上屋」「穴あけ屋」「ビス屋」「エーテル屋」「接眼油・基軸油屋」・・・・・etc。
 そして最後に「調整屋」・・・・・ここが終着点なのですが、とにかく、いろんな分野に、元兵士達を巻き込みながら、大勢の若者たちが専門メーカーとして猛烈に活躍しだしたのでした。
 その結果、一匹オオカミの連中が造り出した生産のネットワークは一体どこまで細分化されていたのか、今では見当もつかない程徹底的な分業組織になって完成したのです。言わばそれは自然発生的なネットワークでした。
 無論、それぞれは〇〇株式会社 有限会社XXX、なんとか商工、とか、規模は小さくとも立派な社名のある法人・個人会社で、たまたま扱っている商品名で通称そう呼ばれていたケースが殆どでしたが・・・・。

 ネットワーク完成の効果が利いて、最も生産台数の多いツアイスタイプのスタンダード7x50、及び8x30等のいずれかを、輸出業者から受注した最終工程者の調整屋が、必要な台数をまず「鏡体屋」に発注すると、加工上がり一式が自動的にアルマイト屋、塗装屋、皮張り屋・・・と流れて、何日後かに完成部品がセットになって、台数分揃って「調整屋」の自宅に届くシステムが実現したのです。同じようにレンズ関係は各レンズ屋から、その他の部品もそれぞれのルートから都合よく届くようになったのです。

 「調整屋」は大きな会社に「1台いくらの受け取り制」で多数雇用されている例もありましたが、全体としては独立した零細企業が大半を占め、親父さんとおかみさん二人、よくて若い衆数名抱えて二階屋に住むケースが多く、場所は窓から遠くに銭湯の煙突の見える所が最高とされていました。大体300メートル離れた煙突の太さが角度で約3分の幅、光軸を合わせる条件として最適の標的になったからです。
 調整屋は、場合によってはLCの関係で徹夜の仕事も多く、2階への階段下にはラーメンの丼が重ねられて置いてあったり、下から声をかけるとステテコはいたオヤジが鉢巻き姿で降りて来たり、と、そんな風情は当時は当たり前の光景として受け取られていました。

 皇御国(すめらみくに)のもののふは、
 
いかなることをか努むべき。
 ただ身にもてる真心を、
 君と親とにつくすまで。
 
(註;すめらみくにとは「大日本帝国」もののふとは「武士」のこと)

 大東亜戦争時代に歌われたこの歌がそんな場所で聞かれたわけではありませんが、かっての「すめらみくにのもののふ」も、今では支那そば食って風呂やの煙突を眺めているか、と思うにつけ時代の変化にただただ驚くばかりでした。
 ----とは云え、当時の若者達に平均して言える事があったとしたら、それは「性根が坐っている」というのか「表情に凄みがあった」とか、戦禍をくぐり抜けてきた強運の者達だけあって『つわものらしい男らしさがあった』と掛け値なしにそう申したい気持ちがあります。
 さすが「すめらみくに」の言葉は消滅していましたが、「もののふ」つまり「サムライ」はまだまだ健在だったのです。

 調整屋で組み立てられ完成した双眼鏡は、ブランドごとに仕分けられ、主として輸出業者からの指示で専属の「梱包屋」に運び込まれました。
 

 多くの光学会社が最初に居を構えたのは、板橋区の大山付近です。文字通り双眼鏡業界の直中で、近くには業界の司令塔である望遠鏡双眼鏡輸出検査協会、望遠鏡双眼鏡技術協会、その二つの公の機関まであって、まるで地域内すべてが光学業界だという雰囲気のあった場所です。
 両協会は、輸出のための検査、及び基準の作成、改正ごとのその改正項目細目の公示、検査資料、技術資料、問題点及び解決方法、主な双眼鏡の各種図面、雑多な相談事など、それらに対応する機関として無くてはならない存在でした。検査協会にはあらゆる検査装置や道具が豪華に揃っていました。各社で必要とされる検査道具器具類はどのようなものでも協会を通じて購入出来ました。とにかく何もかもオープンで、必要なものはすべて自由に手に入ったのです。反面、考えれば、特許や実用新案などに対しては指導も教宣もなく全く無防備の業界であった事が今では不思議に思えるのですが、逆に、それだけ開かれた業界であった事は間違いありません。

 当時、双眼鏡の組立て調整代はいくらであったか。それは大体、当時の理髪代と同額の金額だったとの事。現在の理髪代は埼玉県内で3.400円くらいですからその計算では一家で300台もこなせば100万円は軽く越え大変な稼ぎになった筈です。然し、現在の理髪代は当時の値段に比べて相当に高くなっていると思われるので300台で金持ちになったとは考えられません。調整代がかなり安かった分調整台数はもっと多かったと見るべきでしょう。
 -----それにしても調整屋は荒稼ぎが出来た時代でした。池袋のキャバレーで札ビラを切ったり、元特攻隊の調整屋のお兄さんが「超大型」高級車セドリックなどを乗り回していた光景が日常的に見られたと聞きます。マイカー時代が360cc軽自動車の出現でその兆しがようやく見えて来た頃ですよ。

 今はどうか、家内工業での完成品までの組立て調整は多分やられていない筈です。大きな工場で、工程ごとに作業が分かれすべてが社内分業になっている筈です。製品それ自体もオリジナル機種が増え、その会社でしか出来ない独特の製品が多くなっているので当然の帰結でしょうか。
従って雇用形態でも1台いくらの受け取り制は殆ど採用されなくなっていると思われます。

 ともあれ、当時生産された双眼鏡の大半はアメリカに輸出されました。その輸出の大部分(80%くらい)はツアイスタイプの「7x50」(他の50ミリを含めて)、あとの10%くらいが同じツアイスタイプの「8x30」(他の30ミリを含めて)、残りの10%は「その他の機種」でした。その他の機種にはボシュロムの7x35、8x40、とかのワイド系統、ミクロンタイプの6x15、8x20、とかの特殊機種。更に〇〇x〇〇のダハ、とかズーム、等々があったようです。
 その上、別途にオペラグラスが違った形で流れていました。

 「その他の機種」に含まれた独自色濃い製品の部品は、全部品を地域分業体制から調達出来ず、大半の部品は自社生産を余儀無くされたのですが、小ロットで単価的に割高でも結構いい商売がやれた時代だったと思います。

 徹底した自然発生的な分業システムは、別に双眼鏡業界だけに存在したわけではありません。カメラ業界にも勿論ありました。その頃のカメラは二眼レフ全盛の頃、いわば「ブリキ細工」のカメラが圧倒的な勢力を誇った時代でした。
 レンズには、トリプレットタイプのレンズ、ガウスタイプ、テッサータイプ、等々、レンズの種類はマチマチでしたが、それぞれの専門レンズ屋が過不足なしに対応してくれていました。又、シャッターは御存じのシャッター屋から、絞りはこれも専門屋から、その他、殆どの部品部材は同じように分業先から仕入れて組み立てられていたのです。自分のところで資金負担したのはボデイの板金型代、彫刻代、印刷物、そんなところではなかったかと思えるくらいです。蛇腹式のブローニー判(ベスト判なども含んで)カメラも同じような環境下にあったと思われます。

 ブランドはどうしたか?。勿論それは販売先のブランドでした。然し、販売先としては小売屋さんも結構幅を利かしていたので、従って、その小売屋さんのブランド、例えば、田村写真機店さんが発売元のカメラは、タムラ「TAMURA」をひっくり返して、アルマート「ARUMAT」とする、そんな案配でした。その場合のレンズは無論「アルマートF-3.5のトリプレット」とかになった筈です。

 似たような分業形態の業界は顕微鏡にも見られました。むしろ、顕微鏡の方が双眼鏡より徹底していたような気もします。
 光学機器以外ではどうか?。知る範囲では「ミシン」があります。「自転車」もそうだと聞きました。

---------------------------------------------------------------

 双眼鏡の生産システムが何故自然発生的に出来上がったのか。それは双眼鏡を構成する部品点数に大きく関わっています。
 7x50ミリの双眼鏡の部品点数は100点以下です。つまり二桁です。図面といっても二桁枚数に過ぎません。その図面も戦前からの図面がそっくりそのままで使えたし、仮にもし、いざとなっても簡単に一人でも引けるし不安はありません。大体、図面など全く見ないでモノが作れる範囲の製品なのです。業界では見た事のない者は推測では90%以上いたと思われます。
 部品点数が100点以下ですから、調整屋には熟練度が必要ですが最初から最後まですべての工程を一人で片付ける事が可能でした。仕入れ先、外注先、納入先、全部合わせても一桁範囲の数です。運搬はリヤカーでOKでした。
 つまり「人間一人がシステムの重要な単位」になれたのです。一人であるからこそブランドメーカーとの間には隷属関係は発生しません。商売は調整屋の自由な裁量に任せられて成立していました。
 スタンダード7x50ミリ双眼鏡は文字通り『スタンダード』です。どこで作っても同じ7x50ミリなので、どこに売っても商売が出来る---これこそが調整屋達の絶対的な強みだったのです。
 この論法は大抵のブリキ細工の二眼レフにも言えたし、ミシンも自転車も規模は大きくても大同小異の環境にあった筈です。

 然し、35ミリの通常のカメラの場合は違っていました。この場合の部品点数は一般的に三桁になります。つまり999点までの点数です。こうなると形状が機種ごと違う事もあって図面作成はもう一人では無理、チーム編成が必要になってきます。そして又、生産は家内工業ではなく、本格的な工場で多数の従業員が参加する形を取るようになるのです。丸ごと下請け生産は最初から不可能でした。又、この世界には単独で製品をまとめる調整屋はいません。
 従って、ここではシステムの単位は独自の「各チーム」だ、と、言えます。チーム単位となると自然発生的な下請けの組織的構築は無理です。それらに代わってカメラメーカーの意図による育成された専属の協力下請けが誕生した感じがします。

 参考までに・・・・
 それでは四桁の部品点数を必要とする製品は何か?。四桁は9.999点までの部品です。----それはクルマです。工場は工場でも巨大資本の巨大工場で行わなければ出来ません。その業界では資本が強制的にネットワークを構築するエネルギーになります。エンジ、車体、内装、その他、それらは専門の各部門ごとに広範な下請けを抱え込んでいます。単位は「各部門」です。

 五桁の製品は何か?。部品99.999点の製品です。飛行機がそうです。こうなると巨大資本でも出来ないので国家の音頭取りが必要になります。巨大会社の連合体が構成されます。エンジン、胴体、翼、脚、それぞれが巨大会社で作られます、単位は「各巨大会社」そのものです。

 六桁の製品は何か?。宇宙ステーションなどです。打ち上げるのは特定の国であっても国際的な分業が必要になってきます。国家間の連合体が共同で作り上げる、と云ってよいでしょう。単位は「各国家」です。

 七桁の製品はあるか?。----ありませんね。仮に作り上げるとしても設計から生産まで数十年の年月がかかる事でしょう。4年任期の大統領がそれまで先を見通す気概を持つようになるのか、更に、数十年先を見据えて半年決算の株式会社が先行投資をやるか---やる筈は全くありませんね。現在のいかなる国家組織であっても対応出来るスベがありません。そのあたりが資本主義体制での人間の限界点となるのです。

 因みに、途上国の追い上げは部品点数の少ない製品から狙い打ちされました。7倍50ミリ双眼鏡はその図式通りの展開になりました。板橋界隈の光学産業自動生産システム(?)は崩壊すべき運命を抱いて文字通り見事に崩壊して現在に至っています。世界に通用した日本製のスタンダード7倍50ミリ双眼鏡(ツアイスタイプ)はいつともなく消滅してしまったのです。

 かっての双眼鏡屋や調整屋達はどうなったか。

 現在、時として大東亜戦争のハナシなどに及ぶと、突然変身したように人格まで変わってしまう御老体が多いのではないかと思いますが?・・・。そんな御老体が存在することを想像出来ますか?。
普通の人間でありながら、それも普段はごく普通の生活を送っている凡人でありながら、ひとたび当時のアレコレに出くわすと、まるで豹変したごとく声を出して涙を流したりし始めるのです。どっかの居酒屋で素頓狂な声で軍歌を歌っている集団を目にする時がありますが、あのような御老体の事ですよ。一見、過去からやって来たような男性達です。その中にかっての双眼鏡屋や調整屋も大勢紛れ込んでいるかも知れませんね。

 そのような御老体がまだ少しは若かった頃、今から五十年くらい前から二十年くらい前まで、集中的にアメリカにモノを売り込んだのがその方達でした。日本の産業界の指導者にはアメリカの産業全体を徹底的に壊滅させようとしたネガテイブな意図がある、と当のアメリカが言い出した程でした。まるでそれは裏返しの大東亜戦争だと評されたのです。その役割のいかほどかを担った者の中に双眼鏡屋や調整屋がいなかったという保証はありませんね。

 大東亜戦争を戦い抜いたかっての勇士、そして戦後、大量の双眼鏡を手掛けた猛者達も今は老い、焼酎を飲んで軍歌を歌う哀れな単なるボケ老人になったように思われるでしょうが、彼等こそ戦後の日本を育てあげたかっての皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)だと思うのですがいかがでしょうか。

-------------------------------------------------
 話を戻しますが-----

  部品点数とは違った視角からの、違う尺度での論法もあります。
 それはkg当たりの価格から見る方法です。
 7x50の双眼鏡の重量は約1kg 。これが判断の基準です。
 kg あたり原価1.000円以下の工業製品は途上国に取られていく運命にあります。その最たる製品は造船業で、kg あたりの単価が極端に低いので、とっくに取られていますね。従って7x50 の双眼鏡も同じ、日本製品では高くついて売れなくなるのは当然だったのです。kg 原価1.000円以下のアジア製品が大量に日本に入り込んできたのは蓋し当然だったのです。更に、クルマは約1トン、kg 原価1.000円として1トンでは原価100万円、それが分岐点で、それ以下で生産可能となった時点で生産国が自動的に決定される事になります。大衆車はやがて途上国にすっかり取られる事を覚悟しなければなりません。事実その傾向は現実の問題になってきています。
 解決方法はあるのか。あるとしたら、部品点数を増やす事、叉はパテントで防衛されたアイデアを得る事、そして、それによる付加価値の増大を計るほかありません。そのために必要になるのは「知識と知恵」です。当たり前のハナシですよね。

 …………ともあれ、戦後まもなくからスタートした民需用スタンダード7倍50ミリ双眼鏡は、大きく輝かしい歴史を作った戦後日本の誇るべき偉大な双眼鏡だったのです。


 別のハナシになりますが・・・・

 板橋区に何故光学器械つまり非鉄金属の軽工業が発達したのか、それは埼玉県から板橋区にかけて縦貫する川越街道の存在に関わりがあるように思えます。
 光学産業が密集したのは区内でも川越街道沿いの地域でした。中山道沿いには何故か集まらなかったのです。

 板橋区内、川越街道沿いのかっての光学関連の中小零細企業の多くは、現在はマンションラッシュに押しまくられ、その多くが埼玉県の奥、川越方面にまで移転再建して営業を継続しています。然し、形は変わっても川越街道沿いの現実は同じです。街道から外れては商売がしにくくなる、という単純な理由からもある筈なので、勿論、敢えて街道から離れて行った会社も多数ありますが−−−。
 然し、もともと何故川越街道だったか、という問題は残ります。

 
 --------以下はそれについての私見ですがお読み下さい。

 江戸時代、川越街道に沿って川越から江戸に流れる新河岸川(しんがしがわ)が活発な流通経路として大きく利用されていた時代がありました。
 船着き場のスタート点として、現在の埼玉県川越市の近くの「旭橋」にかなり大きい船着き場(現在史跡になっています)があった、と、あります。現在、その地にはこれまた史跡に近い元の大きな船問屋が現存しています。運ばれたのは米とか野菜等の食料や衣類関係が主だったのですが、北関東、例えば栃木の足尾銅山などからの銅や錫、亜鉛などの流入もあった筈です。その証拠になるのかどうか、中継点だった埼玉県志木市から新座市にかけ、古くからある伸銅商の看板を今でも散見出来ます。又、当時から継続して銅の加工を行っている伸銅工場も現存しています。更に加えて地域を流れる柳瀬川や黒目川には伸銅加工のために多数の水車が設置されていた史実も分かっています。

 川越街道沿いには新河岸川を中心にして銅を始めとする多用な金属類の集散地があって、その事が地域の軽工業発展の小さな原動力になったと考えてみました。そして、それをより大きく拡大したのが、隣接する巨大人口の東京の板橋区、そこにこそ多数の非鉄金属生産工場が輩出した基本的な理由がある、と判断したわけです。但し、明治以降は自動車や鉄道の発達で川での物流は廃れました。然し、もともとの地場産業としての銅による軽工業は、整備された新しい川越街道と自動車や汽車(東武東上線)によるこれも新しい流通手段に転換されてより強く埼玉県と板橋区に根を張りその後の発展に大きく寄与した、と考えたいのです。

 非鉄金属による軽工業の基盤になるのは銅です。銅による製品の生産が可能になって始めてその他の金属が付加されて複合非鉄金属製品が出来ます。光学機器の主な部材はアルミですが、アルミとは云え基本になる銅の加工があってアルミ加工も可能になるのです。
 アルミの国産原材料はありません。すべて外国産で輸入品になります。然し、非鉄金属製品を支えるのはあくまでも加工方法からして歴史のある国産の銅材であると認識すべきでしょう。

 板橋区に加えて、埼玉県をも含めて複合的な核として誕生した軽工業は、更に練馬区、北区、そのあたり一帯を付帯的に巻き込んで光学産業の発達に大きく貢献しました。当然ながらそれらは軍需工業としての発達でした。そして終戦、事態は大きく変換しましたが、それからの今日までの発展の度合いは戦時中とは比較になりません。世界を席巻するまでに至ったのです。以後、もともとの産業素地は引き続き継続されて、落陽の時代にあるとは申せ現在に至るも強烈な残像はかなりまだ残っていると考えてよいと思います。

 然しながら・・・・

 川越街道の途中には東京都と埼玉県との境界線があります。そこには小さな橋があって「東埼橋」の名がつけられています。この橋を中心に、日本の光学産業はすさまじい勢いで発展しました。然し、その橋は、あたかもかっての新河岸川にある「旭橋」と同様に、残像は残されているとは申せもう象徴的なモニュメント橋と呼んでもいい時代になっているのかも知れませんね。

 品川、大井、大崎地区が鉄を中心にした重工業の中心地、又、葛飾区や台東区、江戸川区等が日用品や玩具雑貨類、とか、東京の産業は地区によって然るべき理由により発展の基盤が違っていますが、その例に習って板橋地区には軽工業が発達するそれなりの理由があったのだ、と、これがここでの小さな論調の私なりの結論になります。

追記         川越街道と双眼鏡
.                   昭和41年のスタンダード7倍50ミリ

 冒頭に、古い時代の7倍50ミリが手許にない、と書いたのですが、思いもかけずに、その文面を見られたあるビジターから、相当する製品を持っているのでお贈りしたい旨のメールが届きました。その親切に甘えさせて頂いて、送られてきたのが写真の製品です。まぎれもなくそれはありし日の7倍50ミリでした。 本当に有難うございました。

 形姿は、スタンダードタイプですからこれぞと云った特徴はありませんが、然し、それでも、一目見ただけで当時の製品である事が分かりました。使用された方の使用の仕方や保管いかんにもあったのだろうと思いますが、そのいずれも丁寧であったためか現在に至るも組み付けは当時そのまましっかりしていました。当時の相当に厳重な検査をパスしただけあって狂いも全くありません。
 
 スタンダードタイプの7倍50ミリは今でも中国製を筆頭に入り乱れて店頭に並んでいます。それらを見て、品質の方はさておいて、往年の製品と違う点は、ブランドを始めとして表示されている文字や数字は機械彫刻によらずすべて印刷だという点。又、目当てリングが、昔は主としてボナイト製だったのが現在はゴム製だと云う点、キャップ以外にもプリズムカバー等にプラスチックが多用されている点、これらがあります。

 内部構造には決定的な違いがあります。往年はプリズムは一個一個手作業による「かしめ」で90度に固定され、光軸はエキセンリングを利用して平行軸に調整されていました。現在は「かしめ」方法は省略され、ビスを押してプリズムを僅か傾ける事で光軸を調整するようになっています。又、プリズムは接着剤で固定され、更に、至るところにプラスチックが使われているので、その分接着剤がふんだんに使用されているのが現代の特徴です。生産方法が徹底的に簡略化され、かなりの素人であっても少しの訓練で調整が出来るように改良されています。従って、昔風に分解清掃となると殆ど不可能である点が、反面、欠点になっていると云えるかも知れません。現在でも高級機には完全分解可能な昔風の凝った作り方が取り入れられている場合が多いのですが、その良し悪しは、あくまでもユーザーの使用感覚によって評価される問題でもあるので、現代風の構造が悪いと云う事には繋がりません。従って、単に、昔はそうであった、と云う範囲にしておきます。いずれにしても、重量感も加わってか今回の7倍50ミリには往年の品格があった!!-----と、臆面もなくそう申し上げておきます。(2002.12)